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遺書-給宮口(周)振英博士

宮口(周)振英博士 様

  去る三月、台湾総統選挙に高雄でお会いしたばかりなのに、なんだか長く別れたような気が心に漂っている。

  家内美智子と秋頃に弘前へリンゴ狩りに行こうかと考えていたが、今日(五月廿日)の吉凶日を見逃すわけにはいかない。と 美智子にすまないが、裏闇に今日の決行を進めてきました。
  
  台湾人の中で、否や知り合いや親族の中で、私の今日の敢闘行為を理解して戴けるのは、貴兄も僅か指折りの中の一人であろう!
憶えば、一九九五年八月十五日、日本宮城二重橋前での自決抗議計画の延長線として、今日五月廿日、台湾総統の交替日が一番佳きチャンスであることは云うまでも有りません。
  
  三月廿二日の惨敗は陳水扁矢民進党の敗戦だけでなく、全台湾住民の敗戦且つ台湾民族を世界中一番劣等な民族に推上げた、と私は見取っている。
しかも、我々の全心全力をかけて十数年奮闘努力して来た旗津半島「台湾唯一戦争と平和記念公園」が高雄市政府と市議会の非常識に依って、最初(去年十一月十九日)、高雄市八二三戦友会の請願に同調して、親民党の王齢嬌市議が旗津「戦争と平和公園」を「八二三戦役記念公園」に名称を変更すべき、と云う議案を提出し、大くの市議員の賛同を得た。

  その時点(二〇〇七年十一月十九日)は丁度、台湾協会のお方が高雄、屏東へ巡拝に来た折成ったので、市議会への抗議に馳せることも出来なかった。
後に鄭新助市議のお影で、王齢嬌市議に議会で対面、事情の厳重性(台湾の歴史にとって)を説明し、救い戻すようお願いしたが、多数市議の同意の下では難しいだろうと云われたので、私は各市議(42名)に陳情書と名称変更の得失対照表を添えて一一速達書留で公文書として発送した。

  三月十三日、高雄市議会に於いて「戦争と平和記念公園」の名称変更に関する討議を行った。招集者は高雄市文化局、参列者は国史館台湾文献館、行政院文建会、高雄市議会(名称変更賛同議員五名)、高雄市八二三砲戦関係の老兵団体(三つの団体)の代表と私が出席した。協議の結果旗津の「戦争と平和記念公園」を「平和記念公園」に訂正し、「八二三戦没者記念碑」を我が「元日本軍、前国府軍台湾無名戦士記念碑の左側に建立に決着強られた。

  私は「孤鳥難鳴」の立場に追い詰められ、黙認せざるを得なかった。その日から、私は今日の自決を計った。身を投げ棄ても、この「聖地」と「戦争と平和」の石碑守らなければならんと決心が我が身に心に孕んだ.

  四月廿四日、高雄市政府文化局から、四月廿九日午後二時半、旗津「戦争と平和記念公園」の大石碑の移拆(処理方式)の打ち合わせ会に出席するようの通告公文を受け取った。わたs異は早速当日に郵便局の存証信函で以って高雄氏文化局の「草率性」な措置を反撥し、欠席を以って抗じた。

  去年十一月、公園の名称変更の動きを知った後、私は仕切りに陳水扁総統に卸任(五月廿日、即ち今日)する前に、三分や五分間だけでもよいから、是非万難を排して、旗津「戦争と平和紀念公園」来て戴き、「台湾歴代戦歿英霊」に花一輪でも捧げ、一言御慰問の言葉でも云って呉れ、としきりに乞い願いたが総統府から行程(日程)はもう全部予定しているから行かれない、と云う返文を接して、私は絶望のとん底に陷ちた。最後の救い、と祈っていた阿扁の来臨も望めないとは、もう台湾も台湾人も全部崩壊したように見えた。幾ら、政権交替と云え、陳菊は高雄市長の座に就いているから、若し阿扁が卸任する前に台湾歴史戦歿者の歴史的悲情に関心を持って下されば、高雄市政府の官吏達も幾分が尊重して呉れまであろうと願っていた夢が破滅した。私は五月十三日から五月廿日までの「絶食抗議」運動を企劃したのである。
そこで、五月六日台中で開かれる「元日軍人軍属連合会」理監事会議に出席し、「戦争と平和紀念公園」の名称変更と入口の大石碑(貴殿の努力と日本の有志達の義捐に依って建立した大石理石碑)を拆除する旨を報告し、皆の共憤を捲起した。

  五月九日、元日本軍人軍属連合会と元国府軍台湾老兵及び遺族協会等の団体から推出した代表約廿五人が高雄市議会に抗議を兼ねた嘆願に乗り出した。そして勢揃いに胆を潰れ市議会と高雄市政府は緊急協議した結果、「戦争と平和紀念公園」と刻んだ大理石も、「台湾無名戦士紀念碑」も動かさずそのままにして置くが、公式名称は「平和紀念公園」にする、そして「八二三戦歿者紀念碑」を建立する、と云う風に妥協した。

  しかし、五月廿日(今日)政党変れば、風の向きも変わるだろうと憂って止まない。

  従って、私は佳き自決するチャンスを五月廿日に固く定めた。

  私一人の身を捨て、「台湾国立戦争と平和紀念公園」が誕生出来れば、それに越した幸はなかろう。

  私の決意を知った台中の黄麗雲小姐が自分も一緒に死に度いと来た。青春と全精神を「台湾建国」の為に投入した彼女は史明氏の弟子であり、車のかん札を「台湾国」変更して正々堂々と乗り廻っている女性英雄たる者であります。

  彼女は大腸は摘出されており、小腸でさえ半分手術されている身を引きずって、あらゆる台湾独立運動の戦場(抗議や街頭演説)に挺身した。彼女も「戦争と平和公園」に件に就って随分加担して下さった。彼女のインターネットのブロックは「台湾意識Reyun」である。

  まあ、周先生、拙著「戦後知られざる元日本軍元国府軍台湾老兵の血涙物語」を通じて、お互に縁を結び、高雄滞在中は大変精神的、物質的の面に於て、多神大なご支援を賜り、現在の世の中では、実に得難い恩義であります。只、何も恩に報いることが出来ず、私は「台湾人」に生れた幸を背負って「台湾魂」と化して行きます。
永く・・・有難うございました。

  若し、私達の死が台湾人の良識を呼び醒め、ここ、この土地に近い将来、台停歴代戦歿者を悼む「国立戦争と平和公園が誕生出来れば・・・・・。
お知り合いの方々にも宜しく
            さようならーーー
                          許昭栄 絶筆
二〇〇八年五月廿日吉時

Ps.麻豆真理大学の張良沢先生に
「台湾兵文物紀念館」が建立されるまで、私の所有の著作物と第一代国府軍老兵に関する歴史的な資料を保管して頂くよう取計って下さい、将来、誰かが編纂出来るように「歴史の証言」として残すべき史料です。

中文翻譯

給 周振英先生的遺書 (遺書為日文)

宮口(周)振英博士 先生:

  今年三月、台灣總統選舉時才在高雄剛見過面、卻好像在內心裏己經分別了很久的感覺。
 
  我和內人美智子曾考慮在秋天時節到弘前去採蘋果、但是今天(5月20日)的吉凶日卻絕對不能錯過、非常對不起美智子、暗地裏我進行了今日的自決行為。

  不只是在台灣人中、就是連朋友或親戚之中、對我今日的敢鬥行為能夠理解的、 貴兄是屈指能數的幾個人中之一吧!

  回想起在1995年8月15日曾經計劃在日本皇城二重橋前自決抗議、而其延長線就是今年5月20日的台灣總統交替日、不言可知的這是最有意義的時機。

  3月22日的慘敗、不只是陳水扁或民進黨的敗戰而己、我認為這是全台灣住民的敗戰而且將台灣民族推入世界中最劣等的民族。

  而且、我們全心全力努力奮鬥十幾年所得到的旗津半島台灣唯一的「戰爭與和平紀念公園」被高雄市政府及市議會的沒有常識下、起先是去年11月19日、在高雄市八二三戰友會請願的同調下、親民黨王齡嬌議員認為必須將「戰爭與和平紀念公園」改稱為「八二三戰役紀念公園」而提出議案、得到大多數議員的贊成。

  當日(2007年11月19日)剛好我陪同日本「台灣協會」的成員來高雄及屏東巡拜、我沒時間去市議會抗議。而後、經鄭新助議員的幫忙在市議會與王齡嬌議員會面、說明事情(在台灣歷史的定位上)的嚴重性、請願能夠挽回、但得到的回答是在多數議員的贊成下覆案是很困難的、於是我對贊成的42名議員一一以快速掛號信送出陳情書及附上名稱變更時的得失分析表。

  3月13日在高雄市議會舉行「戰爭與和平紀念公園」名稱變更相關議程、召集人為高雄市文化局、參席者為國史館台灣文獻館、行政院文建會、高雄市議會(名稱變更贊成議員5名)及高雄市八二三砲戰關係老兵團體(三個團體)的代表及本人。協議結果、被迫接受將旗津的「戰爭與和平紀念公園」訂正為「和平紀念公園」、在我們的「元日本軍前國府軍台灣無名戰士紀念碑」的左方建立八二三戰歿者紀念碑的決定。

  我被站在孤掌難鳴的立場上、只能承擔默認、但從這天起、我內心就計劃捨身自決、決心要保護這塊「聖地」及戰爭與和平的紀念石碑。

  4月24日、接到高雄市政府文化局出席要在4月29日下午6時半討論戰爭與和平紀念公園大石碑的移拆處理方式的公文、於是我立刻在當天到郵局用存証信函寄給高雄市文化局反駁其草率的措施並且以缺席抗議。

  從去年11月、我知悉了變更公園名稱的動靜後、我就經常在想假如陳水扁總統在下任前(即今天5月20日)、能夠只要3分鐘、5分鐘也好、排除萬難親臨旗津「戰爭與和平紀念公園」、對台灣歷代戰歿英靈獻上一朵花、說一句慰勞的話就好。但是我這個願望卻接到的是總統府的總統行程全部預定滿檔無法成行的回答、我陷入了絕望的深淵。

  我所祈望的最後救命丹的陳水扁總統的來臨已經無望、我覺得台灣以及台灣人己全部崩盤、雖然說政權要交替了、但是陳菊還坐在高雄市長寶座、陳總統能在退任前對台灣歷代戰歿英靈的歷史悲情表示關心、高雄市政府的官吏們也應該多少給與尊重吧! 最後連這個願望都破滅了、因此我計劃在5月13日到20日進行絕食抗議運動。

  但是在5月6日、我出席在台中舉行的「元日本軍人軍屬聯合會」的理監事會議時、我報告了「戰爭與和平記念公園」名稱變更及折除公園入口的大石碑(即是貴兄所努力發起日本有志義捐所建立的大理石碑)時、引起大家的共憤。

  在5月9日、「元日本軍人軍屬聯合會」與「元國府軍台灣老兵及遺族協會」等團體推出代表25人、到高雄市議會請願並抗議、對這些整體一致的來勢、讓市議會喪膽、於是與市政府緊急協議結果、對刻有「戰爭與和平紀念公園」的大石碑及「台灣無名戰士紀念碑」可以原封不動、但是名稱必須改為「和平紀念公園」、另外建立「八二三戰歿者紀念碑」的妥協案。

  但是5月20日(即今天)政黨輪替時、我非常擔心又會被風吹雲轉。因此我決定5月20日是我自決明志的最佳時機。

  周醫師、我們因為經由拙著「戰後被遺忘的元日本軍元國府軍台灣老兵的血淚故事」一書而相互結緣、在你高雄居留中得到很多在精神上、物質上多大的支持、在現在的時世中實在是很難得的恩義、現在我無法報答你一點的恩惠、我要背負著生為台灣人的幸福化為「台灣魂」離開人間、永遠永遠感謝你。

  假若我的死能夠喚醒台灣人的良識、在最近的將來能在這塊土地上誕生追悼台灣歷代戰歿者的「國立戰爭與和平紀念公園」的話、、、

  請代向各位親友致意、再見了。
                 2008年5月20日吉時
                            許昭榮 絕筆

附註: 給麻豆真理大學張良澤教授:
在「台灣兵文物記念館」成立之前、我所有的著作物及第一代國府軍台籍老兵相關歷史資料請加以保管處置、將來有誰可以加以編纂時、這些都是值得留存下來的[歷史的証言]。

1 則留言:

匿名 提到...

真是一位為台湾而担憂、心繋台湾的可敬台湾人、為了台湾而犠牲、但太可惜了、台湾人会永遠記念他。