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追悼文(高雄市)-By 杉山美也子

『追悼・台籍老兵 許昭榮先生 … 
        旧日本軍人軍属日赤従軍看護婦戦後補償問題』

              国立兵庫教育大学大学院 連合学校教育研究科
              博士課程           杉山 美也子


  2008 年6月6日夕方の高雄駅。改札口の前で、人ごみの中に、いるはずのない人を私は探してしまう。どんなに探しても、あの優しい笑顔の人が私を高雄で待ってくれているはずはない。このむごい現実をここでも認識すると、涙があふれそうになる。しかし、その涙をこらえて、私は毅然とした姿勢で、改札口を通り抜けた。最後にお目にかかったときにおっしゃったあの言葉。「あなたは充分に台湾の良いところも悪いところも理解しているから、もう1人で大丈夫だ」と。もういないのだ。許昭榮先生!

  私が許昭榮先生と出会ったのは、2004年。大学院修士課程に入学したばかりのときだった。大学院の授業で自分の研究発表担当の題目が「台湾老兵([1])・許昭榮先生」ということだった。到底、日本で調査して発表できることではないので、ご本人を知っていそうな人に仲介していただいて、高雄で直接お目にかかることになった。事前に、許昭榮先生が自費出版した『知られざる戦後 元日本軍・元国府軍台湾老兵の血涙物語』台湾老兵世界平和祈願公園建設推進委員会高雄事務所 2002年5月 そして、『許昭榮言行録』自費出版 2002年11月などを読んでいった。これらの本を通じて、「旧日本軍及び中華民国軍台湾人軍人軍属従軍看護婦などに対する補償未解決問題」、「戒厳令下での台湾の政治思想弾圧人権問題」という二つの大きな問題を「許昭榮先生」という一人の人物から読み解くことが出来た。いつも他者のために犠牲になり、受難の連続だった「許昭榮先生」の人生を学ぶということは、常に外来政権に支配されて、暴風雨にさらされてきた「台湾史」を学ぶことと同じであると私は認識している。

  許昭榮先生は、高雄で、政治受難者やその家族を集めて、未熟な外国人の一学生である私のために大きな勉強会を開いてくださった。そして、さまざまなことを教えてくださった。その後、旗津半島にある「戦争と平和紀念公園」に連れて行って、今日(こんにち)にいたるまでの経緯を説明してくださった。当時は、草ぼうぼうの荒地に、暫定的に、トタンのような金属で出来た慰霊碑が立っているだけのものだった。あの土地は、許昭榮先生を中心として、台湾人従軍者だった方々が命がけで、ハンガーストライキを行って、高雄市から勝ち取った土地であると聞いた。しかし、それは、産業廃棄物が山積するひどい土壌で、植物を植えるには、土を入れ替えないとダメだという話だった。確かに、プラスチックのごみなどが土にまみれていて、無残な土壌だった。それでも、許昭榮先生は、「この港から、中国大陸の戦争に連れて行かれたのだから、この場所には強い思いいれがあるのだ」とおっしゃった。

  バシー海峡を望むこの土地にたたずむ慰霊碑と許昭榮先生の思いを理解した私は帰国後、日本人として、日本国民として自分には何ができるのか、いろいろ考えた。まだ大学院修士課程に入学したての私が浅い知恵で考えたことは、自分が所属する拓殖大学の教室を借りて、許昭榮先生のように旧日本軍に従軍して、辛酸をなめた人生を送らざるを得なかった台湾人の老兵の方を数名招いて、講演会を開く。その話に少しでも共感してくれる聴講者から、いくばくかでもかまわないので、募金箱に自分が思うだけの金額のお金を入れてもらう。そのお金は、台湾人老兵や戦争と平和紀念公園維持・管理のために使っていただく。許昭榮先生来日や滞在費用は私がアルバイトで働いたお金を準備して、滞在中になにか問題があったときには、私が全ての責任を負う、という条件で、自分の指導教官を通じて、大学に教室使用のお願いを申し出た。しかしながら、指導教官の返答は、「あなたの志は立派である。しかし、現在、この学校の中では台湾と反対勢力の中華人民共和国の教員や学生が多い。したがって、この計画は実現不可能である。よって、教室使用は許可できない」というものだった。私は諦めずに、東京及びその周辺で台湾支持をしている団体や知人などに、公の施設を借りて、このようなことを実現したいので、協力して欲しいと何度も申し出た。しかし、多くの日本人台湾支持者たちは、李登輝前総統のような著名で地位がある台湾人には何万円、何十万円を出すことを惜しまないのに、このような問題には全く冷淡で無関心だった。結局、私一人が焦るだけで、何も実現しなかった。それでも、慰霊祭がある度に、私は少しばかりの献花と線香などは出来る限り、供えさせていただいてきた。インターネットのメールマガジンにも、「台湾人元日本軍人軍属の慟哭」という、老兵問題に関する投稿をした。そのような私の微力な支援に対して、許昭榮先生は、「関心をもってくれて、本当にありがとう」と心から感謝の言葉をおっしゃってくださった。その言葉を聞くたびに私は自分の無力さを情けなく、申し訳なく思っていた。

  2007 年夏、日本の研究発表会で私は、「台湾人・旧日本軍人軍属日赤従軍看護婦への戦後補償問題」という題目で、研究途中経過発表を行った。この研究は、主に、日本の国内法に注目して、どのような事実関係があって、何によって、21世紀になった現在でも、この問題が未解決であるのかを明らかにした。このような問題の先行研究はほとんどないといっても過言ではない。あるとすれば、弁護士の羽柴駿氏の論文など、ごくわずかなものである。「台湾人で日本軍に従軍した」というと、日本人には、どうしても「高砂義勇隊」ばかりに注目しがちである。しかし、原住民は勿論のこと、平地の台湾人男女も従軍したという事実を特に我々日本人は忘れてはならない。台湾人が従軍した補償問題というと、一般的に、「太平洋戦争に関して、日本への賠償責任を蒋介石総統が放棄したから解決済みである」という“通説”どおりに受け止めている場合が多いと思う。けれど、最近では、外務省『外務省の百年』原書房1969年7月 の文書などを根拠として、異議を唱える人も少なくない。太平洋戦争時に旧植民地の国・地域の人たちが果たした役割とは何か?そして、それらの働きに対して、日本国は戦後、従軍した旧植民地の人たちに、どのような政治決議や法的措置をとってきたのか?政治決議や法律の制定にいたるまでに、日本人政治家や民間人はどのような働きをしてきたのか?法律と現状の矛盾点は何であるのか?これらの問題は「すでに終わった歴史の1コマ」だといえるだろうか?…このような観点に注目して、私は研究調査を進めた。

  まず、「旧日本軍人」、「旧日本軍属」、「旧日赤従軍看護婦」([2])の台湾人の実例をあげて、それらの人たちが果たした役割を明らかにした。そして、次に「我が国における戦後補償制度史と台湾人元日本兵戦死傷補償請求訴訟」の流れを説明した。

第二次世界大戦前の日本国において、日本軍に従軍した人たちを補償する

  法律が存在した。「恩給法」は、日本軍人、幹部候補生、官吏の身分を持つ上級軍属に適用した。「雇用扶助令」は、顧員・傭人に適用した。「陸軍組合規則・海軍共済組合規則」は、工員などに適用した。ここで、問題になるのは、「雇用人タル軍属ノウチ内地勤務者ニツキマシテハ、年金ヲ支給スベク立案中ニ遂ニ終戦ニ至リ。」(第13回国会衆議院厚生委員会における吉武国務大臣の説明より)つまり、この文言によれば、外国で勤務する下級軍属の多くは台湾人・南北朝鮮人であり、戦後と変わらぬ「恩給欠格」であった。

  年代を追ってみていくと、1941年に「台湾人志願兵制度」が実施された。1943年には、「台湾人海軍特別志願兵制度」が実施された。1944年には、「徴兵令」が施行された。やがて日本国の敗戦を迎えた。日本軍に従軍した人たちへの補償制度は、「雇用扶助令」・「傭人扶助令」は、「国家公務員共済組合法」に引き継がれた。1952年には、「戦傷病者戦没者遺族等救護法」を制定した。この法律は、補償が欠落した戦前の外国勤務軍属への救護という意味合いを持つものであった。但し、この法律制定時の世界情勢は、朝鮮半島・台湾の領土帰属問題があったことを見逃してはならない。1952年、日本と中華民国との間に、日華平和条約締結。それにより、台湾人軍属が日本大使館へ戦後補償問題を陳情に行く。日本大使館からは、「補償問題は、日華平和条約により、両国政府で取り決める予定につき、待って欲しい」との返答であった。日本国の戦争責任の観点から一時、廃止されていた「恩給法」が1953年に復活した。けれども、この法律の復活により、日本軍に従軍した旧植民地の人たちが補償されたわけではない。何故ならば、この法律の対象者として、「日本国籍ヲ有スル者ニ限ル」という一文の文言があるためだ。日本国最高裁判所大法廷1962年12月5日の判例によれば、「台湾人は、日華平和条約の発効により、日本国籍を失った」とされているのだ。1972年、日中共同声明の発表。これにより、日華平和条約は事実上、失効となった。1974年、インドネシア・モロタイ島で中村輝夫(台湾原住民名・スニヨン)氏が発見される。日本政府から中村氏への対応は、やはり国籍条項を満たしていないため、日本政府からの正式な見舞金は出なかった。日本政府からは、規定に則って、帰還手当て三万円と未払い給与の三万八千円の支払いがなされただけであった。しかし、特別の見舞金という形で、二百万円や日本の国会議員の有志がポケットマネーやカンパを募って、数百万円を贈った。また、日本や台湾の民間人からも様々な援助があった。そのため、台湾人から日本政府へ補償を求める声が高まりだした。1975年になると、日本国内でさまざまな戦後補償を支援する団体が活動する。例えば、「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」では、明治大学の宮崎茂樹教授が代表となり、王育徳先生が事務局長をしていた。「要求する委員会」では、林景明先生が代表となった。これらの団体が各種陳情や立法運動を行った。その結果、1975年2月28日、衆議院予算委員会において、宮沢喜一外相から、「債務者としての責任は果たすつもりである」という答弁を引き出した。1976年には、明治大学の和田秀夫教授が代表である人権擁護団体「自由人権協会」を秋本英男弁護士らが弁護団となり、補償問題への法律的検証を開始した。翌年には、日本人主要弁護士が訪台して、旧日本軍に従軍した台湾人に聞き取り調査を実施した。1977年、台湾人戦死傷者13名本人とその家族が原告となり、「台湾人元日本兵戦死傷補償請求訴訟」により提訴があった。1982年、東京地方裁判所において、第一審判決。結果は「原告の請求棄却」であった。1985年、東京高等裁判所において、第二審判決。結果は、「日本国政府に早期の補償実現をうながす」というものだった。これは、事実上の「勝訴判決」であり、その後の日本国国会や政府に補償の早期実現を求め、大きな圧力となった。1987年9月、「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」が超党派の議員立法として、通過・成立した。1987年12月、県連会長、理事合同会議にて、シベリア抑留者に対する補償議案が出される。議員連盟は緊急総会を開催した。全抑留者本部を自民党本部6階に設置した。1988年5月、衆議院本会議にて、「平和祈念事業特別基金」などに関する法案可決・成立した。この基金会は、シベリア抑留者を対象に、慰労金・慰労の品・内閣総理大臣の書状などの業務をする。しかしながら、ここでも、やはり、第三条第二項の一に、この法律の対象者は「日本国籍ヲ有スル者ニ限ル」という一文があるため、同じシベリア抑留者であっても、日本国籍ではない日本に軍従軍した台湾人や南北朝鮮の人たちは補償の対象外になってしまった。1987年12月、台湾人元日本兵戦死者に対する弔慰金・見舞金が1人あたり200万円という金額が1988年度予算案で可決された。この結果を得るには、「台湾戦没者等問題議員懇談会」の会長である有馬元治自民党議員が、これまでの運動と世論を受けて、予算編成の最終日に、政府・大蔵省と自民党との最終折衝に挑み、「一発回答」で、200万円の予算案を引き出した。1988年、「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」施行により、死傷者1名に対して、200万円が支給された。これは、1991年までに、約2万8千名の戦死傷者・遺族に対して、支払いがなされた。

  なお、日本国厚生省の調べによると、第二次世界大戦における台湾人軍人軍属は、総数20万人あまり。そのうち、戦死者は3万人あまりである。

  このような歴史的経緯と法律の観点からの戦後補償問題を追ってみると、未解決部分が少なくないことが分かる。今後の課題として、私は6つの問題を提起した。第一に、台湾人軍人軍属日赤従軍看護婦の戦死傷者の補償だけではなく、未払い給与と郵便貯金・葬祭料などの債権が未解決のまま、凍結されている点が大きな問題である。第二に、蒋介石政権下において、「軍人恩給」を受け取ることができなかった旧日本軍従軍台湾人の存在を認識して、その苦悩を理解すること。第三に、現行の法律に、いわゆる「国籍条項」、つまり「日本国籍ヲ有スル者ニ限ル」という一文があるために、多くの旧植民地の日本軍従軍者が理不尽な思いをしている現実を理解し、今後どのような解決策を図っていくかが問題であること。第四に、台湾高雄旗津半島で、許昭榮先生が召集人となり、日本国に補償されず、存在すら認められない無念の死を遂げた台湾人旧日本軍従軍者に対して、「無名戦士の慰霊碑」と「戦争と平和紀念公園」を建設した。(慰霊しているのは、のちに中華民国軍に従軍して、戦死した台湾人やアメリカ人捕虜死者も含む。)許昭榮先生が尽力して、民間の力で慰霊行事を行っている。(※ 2007年7月28日 筆者研究発表時の記述。)第五に、「シベリア抑留された慰労金を受領しなくても満足している。「従軍」ではない「慰安婦」補償金支給の前に日本政府はやるべきことがあると思う」という一文から読み解くことが出来る史実の認識と日本国政府や日本国民がせねばならないこと。これは、台湾雲林県斗六出身で、旧日本国陸軍特別幹部候補生として従軍し、シベリア抑留された呉正男先生の手記の一文である。第六に、この問題を解決するには、日本国内法の整備は勿論のことである。一方で、台湾が「中華民国」という国号を名乗り、中国大陸辺境地域まで「自国の領土」としている「中華民国憲法」を施行している限り、その国際的地位は未定である。この問題解決にも難しい影響を与えているのだ。…以上は、2007年7月28日に筆者が日本の大学で研究発表したものである。(主な参考文献:有馬元治 『有馬元治回顧録:第一巻』  1998.12 太平洋総合研究所、羽柴駿 『現代の目~台湾人元日本軍人、軍属に対する日本国政府の責任を問う~』 1977.9 現代評論社、河崎眞澄 『還って来た台湾人日本兵』2003.3 文藝春秋社、許昭榮 『台籍老兵血涙恨』1995.10 台北:前衛出版社 、許昭榮 『台籍老兵血涙故事』1994.6 台北:國史館台湾文献館 など。)

  くしくも、筆者は5月19日に許昭榮先生と高雄旗津半島で、お目にかかった。絶命の前日である。高雄市政府側が議会の決議をひるがえして、許昭榮先生ら、旧日本軍人だった台湾人が長年尽力して守ってきた「戦争と平和紀念公園」の主旨をかえてしまおうとすることに、許昭榮先生は必死に抵抗をしてきた。今まで協力的だった高雄市政府関係以外の台湾人も同様の言動に出たとの事だった。何度にもわたる私たち日本側友人への国際電話は、まさに英霊と許昭榮先生の「悲鳴」であったと思う。許昭榮先生が、どうにか高雄市政府側をおさえて、本来の公園が当面は保てるということで、急遽、目前に決まった「5月13日の慰霊祭」に対して、私が混乱しながらも、行動できたことは、信頼できる日本側の読売新聞の記者を紹介したことと、許昭榮先生の活動を本当に理解している日本側の友人たちに呼びかけて、献花を出すくらいのことしか出来なかった。しかし、私の一生の悔いは、許昭榮先生の死を止めることが出来なかったことだ。現在も自責の念でいっぱいである。

  以前、許昭榮先生は「2008年5月の慰霊祭を最後に、戦争と平和紀念公園のことは若い人にまかせて、残りの人生は自叙伝を書いて穏やかに過ごしたいと思う」とおっしゃっていた。この言葉は嘘ではなかったと思う。しかし、穏やかな人生の終焉を迎えさせてあげられなかったのは、私自身、当然反省すべきことが多々ある。そして、日本側、台湾側共に、許昭榮先生のこのむごい最期という現実を真摯に受け止めて、それぞれが謙虚に反省してほしい。何が、誰が、許昭榮先生をこんなむごい最期に追い込んだのか?その答えは、各個人一人一人に責任があるからだ。第二次世界大戦後、中国国民党軍に従軍して、国共内戦で中国大陸に置去りにされた戦友の遺骨を供養して、台湾人老兵の状況を調査し、彼らの魂を台湾につれて帰ったのは、民間人である許昭榮先生と支援者なのだ。本来、このようなことは、国家単位の大きな仕事であるべきだ。そのような大きな公の仕事をされてきた許昭榮先生に対して、日台共に今まで、多くの人々が無関心すぎる状態であった。

  許昭榮先生が生命に代えても守りたかった「台湾人の尊厳」、「台湾人の国づくり」、「東アジアの、そして全世界の平和と安定」ということに焦点をおいて、今からでも、私は若い人たちが純粋に育つことを期待し、尽力したい。

  我々は、常に「何が真実」で「何が正義」であり、「我々が進むべき正しい道はどの道であるか」を考えて、生きなければならない。許昭榮先生が遺してくださった素晴しい友人と仕事と精神を引き継いで、手を繋いで、守っていこうではないか!  

  最後に。台湾内でこのような悲報に接したとき、筆者は言い知れぬ衝撃を受けた。その際に、真心をこめて、許昭榮先生の鎮魂を祈り、ご遺族にあたたかい心をかけて、筆者の心身を支えてくれた台北市の新亜旅行社・張幹男董事長と戴瑞月副社長に心から感謝を申し上げる。

2008年6月30日  日本国東京にて


(※ 台湾真理大学『台湾文学評論第8巻第4期 ~ 許昭榮烈士紀念専輯~』2008年10月15日発行に本文は、中文版として掲載済み。真理大学 台湾文学資料館 館長・張良澤教授、副館長・戴嘉玲老師、翻訳者・方冠茹研究員に感謝を申し上げる。

※ 本文は、国立兵庫教育大学史訪会『東洋史訪』2009年3月31日発行に掲載済み。

但し、2009年8月の同会研究発表会において、同会会員であり、兵庫県姫路市公立高校勤務の日本人男性教師である藤井賢二から、台湾人原住民青英政治受難者である故・高一生(原住民名・Uyongue-Yatauyongana)先生や来日してくださった高一生先生の息子・娘及び、台湾本土化教育へ尽力した台湾人教授の方々の仕事に対して、常軌を逸した侮辱する旨の暴言があった。指導教官によれば、暴言主である藤井は、許昭榮先生を追悼する本文にも侮辱の経緯があったという。しかし、それらの暴言に関して、藤井および史訪会として、謝罪や反省などが見られなかった。したがって、2009年9月現在において、筆者は、史訪会と無関係である。同会で、ご教示をくださったにもかかわらず、心の傷を負わせてしまった高一生先生息子・娘である高英傑先生、馬場(高)美英様はじめ侮辱の言葉が向けられた全ての関係の皆様に、筆者は衷心よりお詫び申し上げる。)

* 1) 関連資料:『寧願焼盡 不願銹懷 台湾烈士許昭榮與台籍老兵紀念集』2008年6月 高雄市政府文化局(関連DVD付)
* 2)陳菊高雄市長のもと、故人の遺志を受け継いで、2008年11月9日に高雄市關懷台籍老兵文化協會が組織された。これは、故人が生命に代えても守ろうとした高雄市旗津半島の戦争與和平紀念公園及び戦争文物館の正式完成を目指し、維持管理するものである。2009年5月に高雄市立の文化財として正式完成予定である。

註:許昭榮簡歷  (來源:http://taiwan-soldier.blogspot.com/)

  許昭榮出身屏東水底尞的一個貧困的家庭,從小便需幫人放牛養家維持家計。小學畢業後,在藥店作了幾年工作後,被選中加入日本海軍志願兵。二戰後,又因躲避二二八清鄉,而遁入中華民國海軍,再次展開軍旅生涯。一九四八年在塘沽外海與共軍砲艇海戰,戰鬥中同鄉好友不幸生亡。許昭榮力抗長官海葬的安排,堅持帶屍首回台,最後不得已在長山島草草埋葬戰友屍首,待戰後再拾回遺骸回鄉安葬,卻也因此奠下他日後至中國四處找尋台籍老兵的歷史。

  在1955年,許昭榮奉派赴美接艦,恰巧得知廖文毅奔走台灣獨立的消息,開始留意台獨運動的發展,並在夏威夷接觸到一本台獨運動的宣傳文宣,將此書攜回並在同袍間傳閱。在1958年因此書被捕,接著入獄十年。出獄後,奮鬥事業,卻仍不時遭受情治人員騷擾。1985年赴美考察商務,在美得知施明德在獄中絕食,參加在洛杉磯的聲援活動,護照卻從此備註銷,流亡海外。

  許昭榮於1986在加拿大獲得政治庇護,在1989年持國際難民護照前往中國,尋找41年前戰亡的同袍屍首。在屍首埋葬的長山島找到同袍遺骸,也在常山島認識了一位台籍老兵,從此開始了解台籍老兵悲慘的歷史,以及展開他四處探訪台籍老兵的經過。

  台籍老兵的起源,是在1945-1947年間,一群十七十八歲的台灣子弟,因為家計貧窮或其他種種原因,成了國府陸軍70軍62軍的戰士,或海軍的技術員兵,在中國東北華北或長江戰場出生入死。這些台灣子弟兵有的戰死,有的成了共軍俘虜一輩子無法回台,甚至參加抗美援朝的戰爭去當砲灰,並在文革期間經歷各種整肅。幸運回台的雖然回到了台灣,但他們為國府賣命從軍的歷史,卻被國府否認。自1990年代初期,部分滯留大陸台籍國軍陸續回台,但許多人也因家族四散或其他原因一直未能返台。
  
  許昭榮在中國四處探訪台籍老兵,發起了老兵回鄉的連署運動。1991年政府開放黑名單,許昭榮得已返台。他將連署布條帶回台灣,四處演講台籍老兵的遭遇,並四處串聯在1949年回台的早期台籍老兵,企圖爭取台籍老兵的權益及歷史上該有的地位。1994年成立了台籍老兵協會,並在立法院遊說與舉行公聽會,最後迫使國防部承認台籍老兵的軍籍與其征戰沙場的歷史。但是國防部並未對台籍老兵提供妥當的照顧與尊重,其在1995年入嗣忠烈祠的活動只給予短短三天的預知,也使許昭榮決定繼續為老兵的歷史奔走,以讓世人知道他們的歷史。1997年起,便開始陳情希望替台籍老兵建碑紀念。在1998年動員老兵至高雄市政府抗議,要求建碑慰靈,最後獲致吳敦義市長同意撥給旗津一片用地讓老兵建立紀念碑與公園,但是建碑等費用需自行籌措。
  
  當民進黨謝長廷贏得高雄市長,許昭榮原本寄望市府能幫忙建碑,卻得不到回應。市府也屢屢催促動工,威脅收回土地,許昭榮於是動用僅有的積蓄,建立一作簡單的紀念碑。在2006年後,市府開始支持此公園的興建,然在今年年初,部分市議員帶領823砲戰戰友,打算將此紀念國共內戰台籍老兵的戰爭與和平紀念公園,改成紀念823砲戰的公園。少數市議員更對戰爭與和平紀念公園的「戰爭」二字不悅,並認為此公園內紀念碑影響當地觀光,希望遷移。幾經折衝,市議會與市政府於4月達成協議,將此公園改名成和平紀念公園,不遷移園內台籍老兵紀念碑,但在台籍老兵紀念碑旁豎立一更為巨大的823戰役紀念碑,並要求在入口處的刻有「戰爭與和平紀念公園」的巨大石碑移走或任建築工作人員處置,或將石碑上戰爭二字移除。
  
  許昭榮原本預計在5月13日再次展開抗爭,然在5月9日的最後協調中,三方最後同意不動入口處石碑,但公園仍改稱和平紀念公園並豎立823紀念碑。許昭榮將5月13日的抗爭改為慰靈公祭。在5月13日公祭致詞中,預告他要用生命死守戰爭與和平公園的決心。在一星期後5月20日當天,準備好數份遺書寄發給摯友與媒體,與幾位老友電話告別,最後傍晚在戰爭與和平紀念公園預定地引火自盡。其遺書中寫道「國不像國,政府不像政府,議會亂舞,司法亂彈,自由民主又脫線,愚兵愚兵一世人」,「現行退撫制度,不公不義,剝削番薯仔,照顧老芋仔」,要求審視台灣役男的制度,使老兵得到應有的公平與對待。遺言中更大力斥責扁政府,未能致力追求轉行正義,使台籍老兵錯亂的一生,沒有歸屬的生命,得到平反與正義。遺言最後,提及他要用生命死守這塊公園,直到成立台灣歷代戰殁將士紀念碑為止。

  許昭榮的死,讓許多長久與許昭榮往來的本土社團,開始決定要完成他的遺願,而部分市議員與市府也在努力設法達成他生前的期望,希望能遊說當時反對此公園的部分市議員。


[1]() 「台湾老兵」とは、第二次世界大戦時において、旧日本軍に従軍した台湾人及びその後、中華民国軍に従軍し、国共内戦や朝鮮戦争に従軍して、生き残った台湾人のことを指す。



[2]() 「軍人」とは、軍籍にあり、戦闘技術や戦術学などの軍事にかかわる専門的な技能や知識を修得したものを指す。「軍属」とは、軍人ではなく、軍に所属するものを指す。時代や政治体制により定義が異なる。大日本帝国陸軍においては、傭人・雇人・判任官・高等官の四階級に大別されていた。これらの階級区分は海軍もほぼ同様である。「日赤従軍看護婦」とは、太平洋戦争時、衛生勤務に従事していたものを指す。日本国政府は、戦時衛生勤務に従事していた元日赤看護婦に対し、昭和54年度から慰労給付金制度を発足させた。しかし、慰労給付金の受給条件は、「昭和12年7月7日以降の事変地または戦地において戦時衛生勤務に服し、もしくはこれに引き続き海外で抑留、留用されていた元日赤救護看護婦」であって、「その期間が3年以上にわたり、かつ、旧軍人と同様の加算年を加えて、12年以上に達する者」が適用の対象となっている。その結果、昭和12年7月7日以前に召集された者、当時の台湾・朝鮮等に勤務していた者、さらに在勤年数3年未満の者は給付金受給の適用から除外されている。国籍条項の問題だけでなく、日本国籍を有する従軍者でも補償の対象外となっている問題がある。

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