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AC論說-許昭栄先生の遺書

[AC通信:No.245] Andy Chang (2008/07/27)
[AC論説No. 245] 許昭栄先生の遺書


  許昭栄先生はジャンバルジャンのような人だった。

  第二次大戦を日本兵として戦い、国民党兵士として国共の戦争で戦い、国民党の白色恐怖で逮捕されて10年の監獄生活、その後いろいろな嫌がらせや弾圧をうけた。それでも逆境にめげず、戦死した友人、中国に取り残された台湾兵士を探しだし、戦争で死亡した台湾兵の慰霊碑公園を造ったのである。激しい浮沈の生涯で普通の人間が束になってもやれない偉業を独力で成し遂げたのである。そして今年の5月20日に、彼が20年も苦労して独力で作り上げた「戦争と平和記念公園」を横取りしようとした中国人の暴虐に抗議して焼身自殺を遂げたのである。

  「しゃぼん玉浮沈の果ての志は一瞬」  私の追悼句である。

  高雄に住む沖胡俊春先生からの連絡では、台湾における追悼会は5月27日午後7時から火葬に付し、許先生のご遺言で太平洋の海葬となりましたが、お身内の強い意向で遺骨の半分をお寺に納め、後の半分を6月30日に東海岸から5キロメートルの沖で海に散骨を行った。沖胡先生は船から遺骨を流すときに、泣きながら「さようなら」、「おやすみなさい」、「ご苦労さまでした」と話しかけたという。

  日本における許昭栄烈士の追悼会は7月20日に靖国神社で、許昭栄先生と親交があった石戸谷慎吉、小川智男、宮口振英のお三方の主宰で行われた。お三方の弔辞と追悼文はそれぞれ「台湾の声」に掲載された。

●私と許昭栄先生

  許昭栄先生とは二度しか会ったことがない。第一回目のサンディエゴの台湾会館で行った許昭栄先生の半生記を聞いて、この人が台湾四百年史の中でトップにランクされる人物だとわかった。二度目の会見は台湾で、この時は沖胡先生にご紹介をいただき、宮口(周)振英先生もご一緒で同時にいろいろな台湾の傑出した人物にお会いすることが出来た。

  許昭栄先生が抗議自殺を遂げたあと、私はすぐに許昭栄先生の記念碑を建てることを建議し、台湾やアメリカでもすぐに問い合わせがあった。許昭栄先生とは親しく付き合うことが出来なかったが、彼の遺志を後世に伝えることで一臂の力を添えることが出来れば嬉しいと思う。

  許昭栄先生の抗議自殺については詳細がわからないと言う人も多いので、石戸谷慎吉先生のご好意でかれにあてた遺書をここに掲載して詳細を検討してみようと思う。

●許昭栄先生の遺書

石戸谷慎吉先生:

  近五,六年来、常に格別なるご厚誼、ご教示や御支援を賜り、お陰様にて今日まで活き延びて来ました。心より厚く御礼申し上げます。

  実は、去年十一月廿日、台湾協会斉藤毅理事長、三宅教雄会長ご一行を屏東県、高樹の広修寺にご案内している途中、黄智慧博士から電話で高雄市議会は八二三戦役老兵の請願に依り、多数市議員賛同の下に旗津の「戦争と平和記念公園」の名称を「八二三戦役記念公園」に変更する決議を知らされたときは、私は憤慨のあまり狂いだしたような気に駆り立てられ、大声で黄博士に「陳菊市長に「戦争と平和公園」をどう処理するか?聞いてください!」と怒鳴りました。その時から、私は「戦争と平和記念公園」の危機を直感しました。

  11月二十二日、台湾協会ご一行様を台北に見送った後、私は早速知り合いの市議鄭新助法師を通して提案者王齢嬌(親民党)市議を訪れ、抗議文を渡したが、「既に議会多数の同意で通過した案件だから、それを翻返すのは難しいから、挽回の方法としては四十二名の市議を一々訪れ、詳しく説明して見てください」と言われた。八十歳の爺が四十二人の市議に一一頭を下げてお願いすることは、私にとっては死ぬよりも辛い事ですから、私は早速各市議に「嘆願書」t「名称変更の得失対照表」を附して速達書留で分送しました。

  その後ずっと何の沙汰もなく過してきました。やがて年が明けて二〇〇八年三月十三日、高雄市政府文化局が招集人として、国史館台湾文献館の館長劉峰松氏、文建委員会副委呉錦發(陳銘城主任が代表)、「高雄市議会賛同議員五人、八二三戦役に関わる三つの団体の代表と私を集めて高雄市議会に於いて、協議会を開いた。結果、「八二三」の名称は取消し、その代り「八二三戦役戦没者記念碑」を「台湾無名戦士記念碑」の左横に建立する。そして「戦争と平和記念公園」の名称を「平和記念公園」に変更することに決着した。私は反対したが、一人だけの力では何も発揮することは出来なかった。国史館を文建委員会は早くこの案を通過し、工事に取り掛かるべき、と強調した。そうしないと折角弾きだした一、四〇〇万元の中央補助金が白紙に戻される恐れがあるから、と云う理由で妥協した。

  その日から私は憂鬱に悲憤を重ね、三八〇〇坪の聖地を「戦争と平和記念公園」の名称を確保する決心を堅めた。

  四月二十四日、高雄市政府文化局から、「戦争と平和記念公園」の名称は「平和記念公園」に変更したから、三つの処理方案をつけて私を呼びつける心算だったが、私は速達書留にて「不出席抗議」と返事し、嘉義へ帰ったのである。

  そして夜は眠れず、遂に五月十三日から五月廿日まで絶食デモ、抗議活動を企画しました。もう命を捨てても構わなかったと云う覚悟で報道陣や有志達に通達書を発送しました。

  ところが五月六日、元日本軍人軍属および遺族連合会の理監事会議に私は常務理事として出頭し、旗津半島の「戦争と平和記念公園」の危機を皆に報告しました。與会者は大いに憤慨し、即時五月九日各団体から代表を派遣し、高雄市政府と市議会を訪問することを決議しました。

  五月九日、私にとっては大事な時刻だった。若し協議が成り立たなかったら、十三日から廿日の間に流血または死傷を出す覚悟を備えた。幸いにして高雄市政府も市議会もそれを恐れ、協議に乗って呉れた。即ち、今迄私共が建設した記念碑や「戦争と平和記念公園」を刻んだ出入り口の大石碑はそのままの状態にして置く。そして「台湾無名戦士慰霊碑」の左側に「八二三戦没者慰霊碑」を増建する。しかし、本格的な名称は「平和記念公園」とすると協議したわけである。

  だが、この後が憂えて仕様がない。いくら陳菊市長とは云え、国民党が執政している以上、元日本軍人軍属は敵と見られる。従って「歴代戦没台湾英霊」を記念する余地が狭くなる。また、国府軍戦没者は全部台北の同じ忠烈祠に奉祀されているから、高雄旗津半島に「戦争と平和公園」を建設する必要も薄くなってくる。

  従って私達が過去十二年、私の老兵たちの採訪調査を含めて前後二十二年、何をやってきたかさっぱり分からなくなってしまう。
  このような屈辱と不合理は到底受け入れません。
  その心情と決心をご理解下さい。

  とにかく、長年に亘り、いろいろお世話になりました。
  皆様のご厚情とご協力を心に銘記して、「台湾魂」と化し、飽くまで台湾「国立戦争と平和記念公園」の誕生を促したいと思っております。

  どうか先生を始め稲村氏等、お体を大事に、又ご協力、ご支援を下さった方々にもその旨をお伝え下されば幸甚であります。

                           さようなら

二〇〇八年五月廿日吉時          台湾老兵 許昭栄 絶筆

●解説

この遺書を読むと大体のことがわかるが、読者のために解説を加える箇所もあるかと思うので、蛇足ながら説明してみる。この解説は宮口(周)振英先生の寄稿「許昭栄 烈士の『戦争と平和記念公園』設置運動奮闘史」及びご教示による。

第二次大戦で日本兵として戦死した台湾兵士はおよそ3万人、靖国神社に合祀されている。しかし、国共内戦で国民党に徴兵され、戦死した台湾兵士はおよそ1万2千人である。

台湾人は台湾のために戦ったのではない。日本のために戦い、更に不本意ながら徴兵されて国共内戦で戦ったのである。しかし、日本はこの事実を認め、靖国神社に合祀したのに反し、国民党政府は台湾兵戦没者の存在すら認めようとしなかったのである。許昭栄先生は国民党の迫害に耐えながら、第二次大戦と国共の大陸戦争に巻き込まれた台湾人の生存者及び戦死者を探していた。

許昭栄先生が国府に抗議を続け、ようやく1995年に1万2千柱の英霊を台北の忠烈祠に合祀したが、国民党は儀式を非公開にして写真さえ撮らせなかった。このため許昭栄先生は特に台湾戦没兵士のため、旗津に用地を請求して、二度の戦争による台湾兵士の慰霊碑を建立したのである。

その後独力で高雄市の旗津半島にあった未開発地を市政府から譲り受け、そこに「魂鎮故土」の慰霊碑および「台湾無名戦士慰霊碑」を建てたのであった。そしてこの土地を「戦争と平和記念公園」と名付けて、市政府に公園の整理に必要な経費を請求したのである。

ところが蒋系中国人の市会議員は政府が整地の費用を出す機会に許昭栄先生の業績を抹殺し、中国人の記念碑にしてしまう卑劣な手段をとったのである。つまり「戦争と平和記念公園」から戦争の二字を除去し、「平和記念公園」とすると決議したのである。蒋系中国人は戦争の二字を入れれば中国の反発を買うから戦争を除去すると説明したが、それなら「八二三戦没者慰霊碑」は完全に中国人同志の戦いであり、この方が中国を刺激するはずである。

戦争は台湾人の本意ではなかったのに戦争に駆り出されて戦死者を出した。それ故に「戦争と平和記念公園」と命名したのである。中国人は台湾人の苦心して作った公園を勝手に中国人のために改名して、その上に「八二三戦没者慰霊碑」を建立するという、つまり市政府が金を出すから台湾人の公園を中国人の公園にしてしまえ、と言うわけである。これはとうてい受け入れることが出来ない。中国人の理不尽に対する抗議の焼身自殺の真相はこれである。

●許昭栄先生の遺志を継ぐために

私と許昭栄先生はほんとうに短い交友関係だった。しかし彼の遺志を継いで闘争を続けるために高雄市政府に抗議する、許昭栄先生の慰霊碑を建てることをここに建議し、皆さんのご支援を賜るようにしたいと思ってこの一文を草した。

台湾では許昭栄先生の基金が出来て募金運動を開始している。石戸谷先生のメールでは、宮口先生からの通知で以下の口座に入れることが出来るという。日本の読者が募金に応じて小額でも献金していただければありがたい。

1. 振込み時に、まず銀行に台湾玉山銀行の日本円口座は
MEGA INTERNATIONAL COMMERCIAL BANK CO., LTD., Tokyo(SWIFT Code:ICBCJPJT)に設置していることを告げる。
 2. 後は銀行名をE . Sun Commercial Bank, Ltd., Taipei, Taiwan(玉山銀行) (SWIFT Code:ESUNTWTP)
   名義人:YU MEI CHIH(余 美智)
   口座番号:0071-968-313231  を記入

アメリカでも近日中に募金を開始する計画であるが、台湾での募金運動は詳細がわからないが、すでに口座を設置したと聞いている。

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