
主辦單位:社團人外省台灣人協會
協辦單位:松山社區大學、萬華社區大學、北投社區大學
合辦單位:高雄市關懷台籍老兵協會、國立清華大清華學院、中華大學
人們總是太容易遺忘
時光沙漏造成記憶的落差
老兵們的身上
留著戰爭不可抹滅的傷痕
老兵們的心中
藏著歷史不能被揭開的一頁……
高砂義勇隊、台籍國軍與台籍日本兵的聲音,在過去由於違反黨國意識形態皆被迫噤聲,外省老兵則因「政治不正確」而被質疑其忠誠性。我們期待藉由「老兵紀錄片暨世紀對話影展」開啟這些塵封的歷史,挖掘這些歷經爭戰長輩們的生命故事,透過影像記錄與隨之觸發的討論,跳脫國家角度,回到個人的層次去重新思考戰爭與社會的對立,也使新一代對歷史流於片段殘缺不全的認知,藉此機會能得以完整,更期待不同背景經歷的人,都能跨越記憶的斷層,真正了解、面對社會中實際存有不同情感與歷史的創傷,並進而培養尊重不同聲音的可能,以追求真正的和解與正義,達到和諧多元的社會意義。
場次介紹
●台北場次 (11/2-11/7、12/4)
地點:松山社區大學
11/4(三) 19:00-21:00 影片:被俘虜的人生 出席者:陳心怡導演
地點:北投社區大學
11/5(四) 19:00-21:00 影片:一人三坪六十年 出席者:王美珍導演
11/6(五) 19:00-21:00 影片:路有多長 出席者:周絲諾外台會秘書長
地點:萬華社區大學
12/3(四) 19:00-21:00 影片:被俘虜的人生 出席者:陳心怡導演
●新竹場次 (12/16-12/20)
地點:新竹影像博物館
※ 映後座題講座
12/19(六) 13:30 影片:不知為誰而戰「高砂義勇隊」影像故事
主持人:王俊秀
出席者:導演 潘小俠、中華大學老師何湘妃、學者 林傳凱
12/16(三) 19:00 影片:銀簪子
12/17(四) 19:00 影片:ET月球學員
12/18(五) 19:00 影片:陳才根的鄰居們
12/19(六) 10:00 影片:被俘虜的人生 出席者:陳心怡導演
12/19(六) 19:00 影片:綠的海平線
12/20(日) 10:00 影片:一人三坪六十年 出席者:王美珍導演
12/20(日) 14:00 影片:赤陽 出席者:陳志和導演
12/20(日) 19:00 影片:路有多長 出席者:希巨‧蘇飛
●高雄場次 (12/22-12/31)
點:高雄電影圖書館
※ 12/22(二) 高雄記者會,歡迎參加
※ 映後座題講座
12/26(六) 14:00 影片:不知為誰而戰「高砂義勇隊」影像故事
主持人:外台會理事長 李廣均
出席者:導演 潘小俠、高雄市關懷台籍老兵文化協會總幹事莊盛晃、兩位老兵
12/25(五) 19:00 影片:陳才根的鄰居們 主持人:林杏鴻
12/26(六) 19:00 影片:被俘虜的人生 主持人:林杏鴻 出席者:陳心怡導演
12/27(日) 14:00 影片:路有多長 主持人:林杏鴻 出席者:希巨‧蘇飛
12/27(日) 19:00 影片:ET月球學員 主持人:林杏鴻
12/29(二) 19:00 影片:一人三坪六十年 主持人:林杏鴻
12/30(一) 19:00 影片:綠的海平線 主持人:林杏鴻
12/31(二) 19:00 影片:赤陽 主持人:林杏鴻
綠的海平線(60min)
導演:郭亮吟
二次世界大戰末期,日本軍隊募集台灣少年前往日本海軍工廠生產軍用飛機,八千多名稚幼少年,自此離鄉背井,奔向生死未譜的命途。《綠的海平線》呈現台灣少年工在戰爭前後的人生起落,動盪時代裡只求生存的無奈、以及因時代改變而受翻弄的命運。拍攝歷時四年,橫跨台灣、日本和中國三地,本片透過大量史料、影片檔案,以及數十位當事人的第一手訪談,以具宏觀意義的歷史視野,重現這段被人遺忘超過半世紀的歷史。首次擔任紀錄片旁白的音樂人林強,以他溫暖而誠懇的聲音,娓娓道來台灣少年工的故事 …
「不知為誰而戰?『高砂義勇隊』影像故事」(54min)
導演:潘小俠
在一九四一年太平洋戰爭時代,日本政府徵調了二萬多名台灣原住民組成「高砂義勇隊」,遠征南洋地區作戰,其中有三分之二魂斷異域,而倖存者則多為終身殘疾。為了重新呈現這段幾乎被人遺忘的戰爭故事,影像工作者潘小俠以一年時間,實地走訪各部落,訪問了三十多位年旬近百的「高砂戰士」,
這部紀錄片主要是以口述歷史方式呈現當年「高砂義勇隊」的成員,對於戰爭歷史的記憶與現在生活狀況的記錄拍攝。
赤陽(105min)
導演:陳志和
記錄日治時期的台籍日本兵,受召前往東南亞任戰俘監視員之職,日本戰敗後遭逮捕接受審判,或入獄服刑或遭絞刑槍決喪命。出獄後的他們無論選擇返台或留日定居,都逐漸被歷史遺忘。他們為誰而戰?為何而戰?又為何背負起時代的罪愆?作者走訪逐漸凋零的老者,記述他們為此而付出的生命代價,以及與政府持續對峙卻徒勞無果的抗爭,試圖在大歷史中留下個人的見證。
台灣歷經不同的政府及統治,台灣子民在備受壓迫之下,受到許多不公平的待遇,尤其在二次大戰末期,日本政府徵召台籍青年投入太平洋戰爭,許多台灣人被殺或冤枉淪為戰犯,不幸的命運鮮有人知。21世紀初,這些戰犯已相繼凋零,由台灣文獻館編撰李展平先生陪同尋訪尚存的十來位老前輩們,透過這部紀錄片,讓台灣子民能瞭解真實歷史,深耕對台灣這塊土地的情感。
路有多長(96min)
導演:湯湘竹
《路有多長》是導演湯湘竹回家三部曲的最後一部,延續回家的主旨,這一次導演將鏡頭對準了一群在國民黨接收臺灣之後,被帶往中國參加國共內戰的阿美族台籍兵。1949年,台籍兵不是戰死就是被迫滯留在中國回不了家,這種政治上的強迫分離,不只發生在台籍兵,也發生在中國。戰爭的荒繆讓ㄧ群無辜的人民投入戰場,遠離家鄉。
在山海交界的台東都蘭部落,導演湯湘竹認識了阿美族木雕藝術家希巨•蘇飛,得知在都蘭部落有ㄧ群被帶往中國,永遠消失的少年階級,延續導演對於回家三部曲的一貫主題,及身為外省二代,瞭解父執輩那一代對於家鄉的感念, 兩人遂以台東部落為起點,展開尋訪阿美族部落裏的台籍老兵,用影像紀錄這些被戰爭捲入的無奈人生。
片名:被俘虜的人生(86min)
導演:陳心怡
內容簡介
在台灣有一小群外省老兵,是國共內戰時被國民黨俘虜的共產黨員。民國三十八年,在古寧頭大戰慘敗的陳書言,就是其中之一。過了六十年,他仍不敢公開自己曾是共軍的身分…
片名:一人三坪六十年(73min)
導演:王美珍
內容簡介
獨身住在三坪大的房間裡過一輩子,是種怎麼樣的生活?
本片記錄空軍單身宿舍「芳蘭山莊」三個老榮民的故事。他們因戰爭離開了舊的原鄉與親人,在台灣又因為經濟條件差無法結婚,無親而孤立。軍方配給的三坪大的宿舍,就是他們生活了一輩子的家。在這「歷史的單人房」裡,其實裝滿了話語,只是,始終缺少談話的對象…。
片名:陳才根的鄰居們(90min)
作者:吳乙峰
內容簡介
在臺北市南京東路與林森北路交接處的14、15號公園,原來是一大片的違章建築區,裏面住了許多中下階層的小市民,以及因為戰爭流浪至此地落腳生根的老兵伯伯,全景映象工作室趕在民國86年拆遷前,走進這一大片的矮房子裏,認識了住在同一屋簷下的七位老伯伯,記錄了他們在大都市小角落裏的生活。
片名:銀簪子(89min)
導演:蕭菊貞
內容簡介:
民國38年前後,國民政府從大陸撤退來台,帶了六十萬大軍,他們以為不久之後就可以反攻大陸回家了,沒想到一待四十年,兩岸才開放。於是,這群老兵成為台灣與大陸間最尷尬的一群人!家,歸不得,不可求。
作者的父親也是老兵。奶奶的一支銀簪子,讓作者走進了父親的世界,和許多老兵伯伯們的深深思念……。
片名:ET月球學員(56min)
導演:吳米森
內容簡介:
異常晴朗的週末午後,朱伯伯在一場京劇座談會遇見中國第一號情報員「長江一號」!原本平淡的月球生涯剎時染起湛藍天幕。朱伯伯到處跟朋友講述「長江一號」的事蹟,直到一日,一則駭人的新聞讓他將放大鏡握得更緊、更近:「高雄有位李鐵生就是歷史上赫赫有名的『長江一號』!」朱伯伯開始不確定自己認識的到底是……。
片中兩位老人家的瘋狂行徑令人拍案叫絕,精彩的對話叫人噴飯叫好,而導演更在介於現實和虛構的結構中,為紀錄片開啟了更多的可能性與期待。
老兵紀錄片暨世代對話影展
【敬邀】2009 秋祭台灣兵

一、時間:2009年10月25日(星期日) 下午15:00-17:00
二、地點:高雄旗津【戰爭與和平紀念公園】
三、出席:台籍老兵及眷屬,各界關懷人士。
四、宗旨:1949-2009,終戰60年,台灣終有第一個戰爭紀念公園,設立後
的第一次追思儀式。第一次逐一唱名紀念3萬戰亡台籍日本兵,及
至少1萬5千以上參與國共內戰台籍國軍,或降、俘後轉解放軍,
但僅知2千個名字。
五、儀程:聚焦台灣兵,不計其他。獻祭以歌樂;獻禮以毎人一朵玫瑰花;
追思以毎人唱唸10個名字(自備或提供),不致詞。
六、開放自由追唸:自追唸名字開始,至唸完之間,任何時候,歡迎自由到
【追唸席】接手唱唸一段名字。但敬請靜默排隊等候。
七、流程
◎全體合唱【台灣】歌詞 (詞曲 王明哲)
台灣是生咱的所在,感念感恩在阮心內
付出情意付出愛,代代花蕊代代栽
台灣的四邊攏是海,青山綠水隨阮來
美麗山河咱所愛,毋通乎人來破壞
台灣突出中央山脈,峰峰相連插入雲內
玉山阿里到奇萊,這是命根的所在
高雄市關懷台籍老兵文化協會 理事長江仲驊 敬邀
聯絡人:莊盛晃 0910703618 Email:juang.jeff@gmail.com
戰爭與和平紀念公園:(07)5719973
還阮一個名
2009/10/21 黃旭初
阮的名是阿爸阿娘給我號
阮的身軀是爹娘的一塊肉
阮是一粒欲落土的蕃薯子
少年從軍出戰為啥代
說是為國光榮來出征
阮是一粒台灣蕃薯子
但是從來沒人來關懷
聽到槍聲砲聲阮會驚
轟火連天看到蓮花影
想到阿娘阿爹給阮疼
另日未當來給爹娘晟
阮是一粒台灣蕃薯子
流血流汗憨憨替人拼
阮的戰死倒底為啥代
也有少年呼人騙
送去中國打內戰
軍衫換了二三遍
未知自己叨一邊
青春原是這美麗
可嘆戰死在外地
少年為國來戰死
無死返來亦半死
攏講祖國若厲害
祖國攏無真心待
戰爭由來全無奈
阮有青春阮有愛
就是戰死在天涯
嘛要返去阮的愛
阮是一粒台灣蕃薯子
阮欲返來自己的所在
阮是勇敢的台灣兵仔
請你還阮一個名
98.07.08戰爭與和平紀念公園導覽解說培訓課程影片
前國史館台灣文獻館劉峯松館長、高雄市關懷台籍老兵文化協會莊盛晃總幹事,帶領學員貼近台籍老兵的歷史故事、旗津半島的傳說風采,發掘隱身其間的點滴故事,讓您親身體驗學習導覽解說的實務過程!
追悼文(高雄市)-By 杉山美也子
『追悼・台籍老兵 許昭榮先生 …
旧日本軍人軍属日赤従軍看護婦戦後補償問題』
国立兵庫教育大学大学院 連合学校教育研究科
博士課程 杉山 美也子
2008 年6月6日夕方の高雄駅。改札口の前で、人ごみの中に、いるはずのない人を私は探してしまう。どんなに探しても、あの優しい笑顔の人が私を高雄で待ってくれているはずはない。このむごい現実をここでも認識すると、涙があふれそうになる。しかし、その涙をこらえて、私は毅然とした姿勢で、改札口を通り抜けた。最後にお目にかかったときにおっしゃったあの言葉。「あなたは充分に台湾の良いところも悪いところも理解しているから、もう1人で大丈夫だ」と。もういないのだ。許昭榮先生!
私が許昭榮先生と出会ったのは、2004年。大学院修士課程に入学したばかりのときだった。大学院の授業で自分の研究発表担当の題目が「台湾老兵([1])・許昭榮先生」ということだった。到底、日本で調査して発表できることではないので、ご本人を知っていそうな人に仲介していただいて、高雄で直接お目にかかることになった。事前に、許昭榮先生が自費出版した『知られざる戦後 元日本軍・元国府軍台湾老兵の血涙物語』台湾老兵世界平和祈願公園建設推進委員会高雄事務所 2002年5月 そして、『許昭榮言行録』自費出版 2002年11月などを読んでいった。これらの本を通じて、「旧日本軍及び中華民国軍台湾人軍人軍属従軍看護婦などに対する補償未解決問題」、「戒厳令下での台湾の政治思想弾圧人権問題」という二つの大きな問題を「許昭榮先生」という一人の人物から読み解くことが出来た。いつも他者のために犠牲になり、受難の連続だった「許昭榮先生」の人生を学ぶということは、常に外来政権に支配されて、暴風雨にさらされてきた「台湾史」を学ぶことと同じであると私は認識している。
許昭榮先生は、高雄で、政治受難者やその家族を集めて、未熟な外国人の一学生である私のために大きな勉強会を開いてくださった。そして、さまざまなことを教えてくださった。その後、旗津半島にある「戦争と平和紀念公園」に連れて行って、今日(こんにち)にいたるまでの経緯を説明してくださった。当時は、草ぼうぼうの荒地に、暫定的に、トタンのような金属で出来た慰霊碑が立っているだけのものだった。あの土地は、許昭榮先生を中心として、台湾人従軍者だった方々が命がけで、ハンガーストライキを行って、高雄市から勝ち取った土地であると聞いた。しかし、それは、産業廃棄物が山積するひどい土壌で、植物を植えるには、土を入れ替えないとダメだという話だった。確かに、プラスチックのごみなどが土にまみれていて、無残な土壌だった。それでも、許昭榮先生は、「この港から、中国大陸の戦争に連れて行かれたのだから、この場所には強い思いいれがあるのだ」とおっしゃった。
バシー海峡を望むこの土地にたたずむ慰霊碑と許昭榮先生の思いを理解した私は帰国後、日本人として、日本国民として自分には何ができるのか、いろいろ考えた。まだ大学院修士課程に入学したての私が浅い知恵で考えたことは、自分が所属する拓殖大学の教室を借りて、許昭榮先生のように旧日本軍に従軍して、辛酸をなめた人生を送らざるを得なかった台湾人の老兵の方を数名招いて、講演会を開く。その話に少しでも共感してくれる聴講者から、いくばくかでもかまわないので、募金箱に自分が思うだけの金額のお金を入れてもらう。そのお金は、台湾人老兵や戦争と平和紀念公園維持・管理のために使っていただく。許昭榮先生来日や滞在費用は私がアルバイトで働いたお金を準備して、滞在中になにか問題があったときには、私が全ての責任を負う、という条件で、自分の指導教官を通じて、大学に教室使用のお願いを申し出た。しかしながら、指導教官の返答は、「あなたの志は立派である。しかし、現在、この学校の中では台湾と反対勢力の中華人民共和国の教員や学生が多い。したがって、この計画は実現不可能である。よって、教室使用は許可できない」というものだった。私は諦めずに、東京及びその周辺で台湾支持をしている団体や知人などに、公の施設を借りて、このようなことを実現したいので、協力して欲しいと何度も申し出た。しかし、多くの日本人台湾支持者たちは、李登輝前総統のような著名で地位がある台湾人には何万円、何十万円を出すことを惜しまないのに、このような問題には全く冷淡で無関心だった。結局、私一人が焦るだけで、何も実現しなかった。それでも、慰霊祭がある度に、私は少しばかりの献花と線香などは出来る限り、供えさせていただいてきた。インターネットのメールマガジンにも、「台湾人元日本軍人軍属の慟哭」という、老兵問題に関する投稿をした。そのような私の微力な支援に対して、許昭榮先生は、「関心をもってくれて、本当にありがとう」と心から感謝の言葉をおっしゃってくださった。その言葉を聞くたびに私は自分の無力さを情けなく、申し訳なく思っていた。
2007 年夏、日本の研究発表会で私は、「台湾人・旧日本軍人軍属日赤従軍看護婦への戦後補償問題」という題目で、研究途中経過発表を行った。この研究は、主に、日本の国内法に注目して、どのような事実関係があって、何によって、21世紀になった現在でも、この問題が未解決であるのかを明らかにした。このような問題の先行研究はほとんどないといっても過言ではない。あるとすれば、弁護士の羽柴駿氏の論文など、ごくわずかなものである。「台湾人で日本軍に従軍した」というと、日本人には、どうしても「高砂義勇隊」ばかりに注目しがちである。しかし、原住民は勿論のこと、平地の台湾人男女も従軍したという事実を特に我々日本人は忘れてはならない。台湾人が従軍した補償問題というと、一般的に、「太平洋戦争に関して、日本への賠償責任を蒋介石総統が放棄したから解決済みである」という“通説”どおりに受け止めている場合が多いと思う。けれど、最近では、外務省『外務省の百年』原書房1969年7月 の文書などを根拠として、異議を唱える人も少なくない。太平洋戦争時に旧植民地の国・地域の人たちが果たした役割とは何か?そして、それらの働きに対して、日本国は戦後、従軍した旧植民地の人たちに、どのような政治決議や法的措置をとってきたのか?政治決議や法律の制定にいたるまでに、日本人政治家や民間人はどのような働きをしてきたのか?法律と現状の矛盾点は何であるのか?これらの問題は「すでに終わった歴史の1コマ」だといえるだろうか?…このような観点に注目して、私は研究調査を進めた。
まず、「旧日本軍人」、「旧日本軍属」、「旧日赤従軍看護婦」([2])の台湾人の実例をあげて、それらの人たちが果たした役割を明らかにした。そして、次に「我が国における戦後補償制度史と台湾人元日本兵戦死傷補償請求訴訟」の流れを説明した。
第二次世界大戦前の日本国において、日本軍に従軍した人たちを補償する
法律が存在した。「恩給法」は、日本軍人、幹部候補生、官吏の身分を持つ上級軍属に適用した。「雇用扶助令」は、顧員・傭人に適用した。「陸軍組合規則・海軍共済組合規則」は、工員などに適用した。ここで、問題になるのは、「雇用人タル軍属ノウチ内地勤務者ニツキマシテハ、年金ヲ支給スベク立案中ニ遂ニ終戦ニ至リ。」(第13回国会衆議院厚生委員会における吉武国務大臣の説明より)つまり、この文言によれば、外国で勤務する下級軍属の多くは台湾人・南北朝鮮人であり、戦後と変わらぬ「恩給欠格」であった。
年代を追ってみていくと、1941年に「台湾人志願兵制度」が実施された。1943年には、「台湾人海軍特別志願兵制度」が実施された。1944年には、「徴兵令」が施行された。やがて日本国の敗戦を迎えた。日本軍に従軍した人たちへの補償制度は、「雇用扶助令」・「傭人扶助令」は、「国家公務員共済組合法」に引き継がれた。1952年には、「戦傷病者戦没者遺族等救護法」を制定した。この法律は、補償が欠落した戦前の外国勤務軍属への救護という意味合いを持つものであった。但し、この法律制定時の世界情勢は、朝鮮半島・台湾の領土帰属問題があったことを見逃してはならない。1952年、日本と中華民国との間に、日華平和条約締結。それにより、台湾人軍属が日本大使館へ戦後補償問題を陳情に行く。日本大使館からは、「補償問題は、日華平和条約により、両国政府で取り決める予定につき、待って欲しい」との返答であった。日本国の戦争責任の観点から一時、廃止されていた「恩給法」が1953年に復活した。けれども、この法律の復活により、日本軍に従軍した旧植民地の人たちが補償されたわけではない。何故ならば、この法律の対象者として、「日本国籍ヲ有スル者ニ限ル」という一文の文言があるためだ。日本国最高裁判所大法廷1962年12月5日の判例によれば、「台湾人は、日華平和条約の発効により、日本国籍を失った」とされているのだ。1972年、日中共同声明の発表。これにより、日華平和条約は事実上、失効となった。1974年、インドネシア・モロタイ島で中村輝夫(台湾原住民名・スニヨン)氏が発見される。日本政府から中村氏への対応は、やはり国籍条項を満たしていないため、日本政府からの正式な見舞金は出なかった。日本政府からは、規定に則って、帰還手当て三万円と未払い給与の三万八千円の支払いがなされただけであった。しかし、特別の見舞金という形で、二百万円や日本の国会議員の有志がポケットマネーやカンパを募って、数百万円を贈った。また、日本や台湾の民間人からも様々な援助があった。そのため、台湾人から日本政府へ補償を求める声が高まりだした。1975年になると、日本国内でさまざまな戦後補償を支援する団体が活動する。例えば、「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」では、明治大学の宮崎茂樹教授が代表となり、王育徳先生が事務局長をしていた。「要求する委員会」では、林景明先生が代表となった。これらの団体が各種陳情や立法運動を行った。その結果、1975年2月28日、衆議院予算委員会において、宮沢喜一外相から、「債務者としての責任は果たすつもりである」という答弁を引き出した。1976年には、明治大学の和田秀夫教授が代表である人権擁護団体「自由人権協会」を秋本英男弁護士らが弁護団となり、補償問題への法律的検証を開始した。翌年には、日本人主要弁護士が訪台して、旧日本軍に従軍した台湾人に聞き取り調査を実施した。1977年、台湾人戦死傷者13名本人とその家族が原告となり、「台湾人元日本兵戦死傷補償請求訴訟」により提訴があった。1982年、東京地方裁判所において、第一審判決。結果は「原告の請求棄却」であった。1985年、東京高等裁判所において、第二審判決。結果は、「日本国政府に早期の補償実現をうながす」というものだった。これは、事実上の「勝訴判決」であり、その後の日本国国会や政府に補償の早期実現を求め、大きな圧力となった。1987年9月、「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」が超党派の議員立法として、通過・成立した。1987年12月、県連会長、理事合同会議にて、シベリア抑留者に対する補償議案が出される。議員連盟は緊急総会を開催した。全抑留者本部を自民党本部6階に設置した。1988年5月、衆議院本会議にて、「平和祈念事業特別基金」などに関する法案可決・成立した。この基金会は、シベリア抑留者を対象に、慰労金・慰労の品・内閣総理大臣の書状などの業務をする。しかしながら、ここでも、やはり、第三条第二項の一に、この法律の対象者は「日本国籍ヲ有スル者ニ限ル」という一文があるため、同じシベリア抑留者であっても、日本国籍ではない日本に軍従軍した台湾人や南北朝鮮の人たちは補償の対象外になってしまった。1987年12月、台湾人元日本兵戦死者に対する弔慰金・見舞金が1人あたり200万円という金額が1988年度予算案で可決された。この結果を得るには、「台湾戦没者等問題議員懇談会」の会長である有馬元治自民党議員が、これまでの運動と世論を受けて、予算編成の最終日に、政府・大蔵省と自民党との最終折衝に挑み、「一発回答」で、200万円の予算案を引き出した。1988年、「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」施行により、死傷者1名に対して、200万円が支給された。これは、1991年までに、約2万8千名の戦死傷者・遺族に対して、支払いがなされた。
なお、日本国厚生省の調べによると、第二次世界大戦における台湾人軍人軍属は、総数20万人あまり。そのうち、戦死者は3万人あまりである。
このような歴史的経緯と法律の観点からの戦後補償問題を追ってみると、未解決部分が少なくないことが分かる。今後の課題として、私は6つの問題を提起した。第一に、台湾人軍人軍属日赤従軍看護婦の戦死傷者の補償だけではなく、未払い給与と郵便貯金・葬祭料などの債権が未解決のまま、凍結されている点が大きな問題である。第二に、蒋介石政権下において、「軍人恩給」を受け取ることができなかった旧日本軍従軍台湾人の存在を認識して、その苦悩を理解すること。第三に、現行の法律に、いわゆる「国籍条項」、つまり「日本国籍ヲ有スル者ニ限ル」という一文があるために、多くの旧植民地の日本軍従軍者が理不尽な思いをしている現実を理解し、今後どのような解決策を図っていくかが問題であること。第四に、台湾高雄旗津半島で、許昭榮先生が召集人となり、日本国に補償されず、存在すら認められない無念の死を遂げた台湾人旧日本軍従軍者に対して、「無名戦士の慰霊碑」と「戦争と平和紀念公園」を建設した。(慰霊しているのは、のちに中華民国軍に従軍して、戦死した台湾人やアメリカ人捕虜死者も含む。)許昭榮先生が尽力して、民間の力で慰霊行事を行っている。(※ 2007年7月28日 筆者研究発表時の記述。)第五に、「シベリア抑留された慰労金を受領しなくても満足している。「従軍」ではない「慰安婦」補償金支給の前に日本政府はやるべきことがあると思う」という一文から読み解くことが出来る史実の認識と日本国政府や日本国民がせねばならないこと。これは、台湾雲林県斗六出身で、旧日本国陸軍特別幹部候補生として従軍し、シベリア抑留された呉正男先生の手記の一文である。第六に、この問題を解決するには、日本国内法の整備は勿論のことである。一方で、台湾が「中華民国」という国号を名乗り、中国大陸辺境地域まで「自国の領土」としている「中華民国憲法」を施行している限り、その国際的地位は未定である。この問題解決にも難しい影響を与えているのだ。…以上は、2007年7月28日に筆者が日本の大学で研究発表したものである。(主な参考文献:有馬元治 『有馬元治回顧録:第一巻』 1998.12 太平洋総合研究所、羽柴駿 『現代の目~台湾人元日本軍人、軍属に対する日本国政府の責任を問う~』 1977.9 現代評論社、河崎眞澄 『還って来た台湾人日本兵』2003.3 文藝春秋社、許昭榮 『台籍老兵血涙恨』1995.10 台北:前衛出版社 、許昭榮 『台籍老兵血涙故事』1994.6 台北:國史館台湾文献館 など。)
くしくも、筆者は5月19日に許昭榮先生と高雄旗津半島で、お目にかかった。絶命の前日である。高雄市政府側が議会の決議をひるがえして、許昭榮先生ら、旧日本軍人だった台湾人が長年尽力して守ってきた「戦争と平和紀念公園」の主旨をかえてしまおうとすることに、許昭榮先生は必死に抵抗をしてきた。今まで協力的だった高雄市政府関係以外の台湾人も同様の言動に出たとの事だった。何度にもわたる私たち日本側友人への国際電話は、まさに英霊と許昭榮先生の「悲鳴」であったと思う。許昭榮先生が、どうにか高雄市政府側をおさえて、本来の公園が当面は保てるということで、急遽、目前に決まった「5月13日の慰霊祭」に対して、私が混乱しながらも、行動できたことは、信頼できる日本側の読売新聞の記者を紹介したことと、許昭榮先生の活動を本当に理解している日本側の友人たちに呼びかけて、献花を出すくらいのことしか出来なかった。しかし、私の一生の悔いは、許昭榮先生の死を止めることが出来なかったことだ。現在も自責の念でいっぱいである。
以前、許昭榮先生は「2008年5月の慰霊祭を最後に、戦争と平和紀念公園のことは若い人にまかせて、残りの人生は自叙伝を書いて穏やかに過ごしたいと思う」とおっしゃっていた。この言葉は嘘ではなかったと思う。しかし、穏やかな人生の終焉を迎えさせてあげられなかったのは、私自身、当然反省すべきことが多々ある。そして、日本側、台湾側共に、許昭榮先生のこのむごい最期という現実を真摯に受け止めて、それぞれが謙虚に反省してほしい。何が、誰が、許昭榮先生をこんなむごい最期に追い込んだのか?その答えは、各個人一人一人に責任があるからだ。第二次世界大戦後、中国国民党軍に従軍して、国共内戦で中国大陸に置去りにされた戦友の遺骨を供養して、台湾人老兵の状況を調査し、彼らの魂を台湾につれて帰ったのは、民間人である許昭榮先生と支援者なのだ。本来、このようなことは、国家単位の大きな仕事であるべきだ。そのような大きな公の仕事をされてきた許昭榮先生に対して、日台共に今まで、多くの人々が無関心すぎる状態であった。
許昭榮先生が生命に代えても守りたかった「台湾人の尊厳」、「台湾人の国づくり」、「東アジアの、そして全世界の平和と安定」ということに焦点をおいて、今からでも、私は若い人たちが純粋に育つことを期待し、尽力したい。
我々は、常に「何が真実」で「何が正義」であり、「我々が進むべき正しい道はどの道であるか」を考えて、生きなければならない。許昭榮先生が遺してくださった素晴しい友人と仕事と精神を引き継いで、手を繋いで、守っていこうではないか!
最後に。台湾内でこのような悲報に接したとき、筆者は言い知れぬ衝撃を受けた。その際に、真心をこめて、許昭榮先生の鎮魂を祈り、ご遺族にあたたかい心をかけて、筆者の心身を支えてくれた台北市の新亜旅行社・張幹男董事長と戴瑞月副社長に心から感謝を申し上げる。
2008年6月30日 日本国東京にて
(※ 台湾真理大学『台湾文学評論第8巻第4期 ~ 許昭榮烈士紀念専輯~』2008年10月15日発行に本文は、中文版として掲載済み。真理大学 台湾文学資料館 館長・張良澤教授、副館長・戴嘉玲老師、翻訳者・方冠茹研究員に感謝を申し上げる。
※ 本文は、国立兵庫教育大学史訪会『東洋史訪』2009年3月31日発行に掲載済み。
但し、2009年8月の同会研究発表会において、同会会員であり、兵庫県姫路市公立高校勤務の日本人男性教師である藤井賢二から、台湾人原住民青英政治受難者である故・高一生(原住民名・Uyongue-Yatauyongana)先生や来日してくださった高一生先生の息子・娘及び、台湾本土化教育へ尽力した台湾人教授の方々の仕事に対して、常軌を逸した侮辱する旨の暴言があった。指導教官によれば、暴言主である藤井は、許昭榮先生を追悼する本文にも侮辱の経緯があったという。しかし、それらの暴言に関して、藤井および史訪会として、謝罪や反省などが見られなかった。したがって、2009年9月現在において、筆者は、史訪会と無関係である。同会で、ご教示をくださったにもかかわらず、心の傷を負わせてしまった高一生先生息子・娘である高英傑先生、馬場(高)美英様はじめ侮辱の言葉が向けられた全ての関係の皆様に、筆者は衷心よりお詫び申し上げる。)
* 1) 関連資料:『寧願焼盡 不願銹懷 台湾烈士許昭榮與台籍老兵紀念集』2008年6月 高雄市政府文化局(関連DVD付)
* 2)陳菊高雄市長のもと、故人の遺志を受け継いで、2008年11月9日に高雄市關懷台籍老兵文化協會が組織された。これは、故人が生命に代えても守ろうとした高雄市旗津半島の戦争與和平紀念公園及び戦争文物館の正式完成を目指し、維持管理するものである。2009年5月に高雄市立の文化財として正式完成予定である。
註:許昭榮簡歷 (來源:http://taiwan-soldier.blogspot.com/)
許昭榮出身屏東水底尞的一個貧困的家庭,從小便需幫人放牛養家維持家計。小學畢業後,在藥店作了幾年工作後,被選中加入日本海軍志願兵。二戰後,又因躲避二二八清鄉,而遁入中華民國海軍,再次展開軍旅生涯。一九四八年在塘沽外海與共軍砲艇海戰,戰鬥中同鄉好友不幸生亡。許昭榮力抗長官海葬的安排,堅持帶屍首回台,最後不得已在長山島草草埋葬戰友屍首,待戰後再拾回遺骸回鄉安葬,卻也因此奠下他日後至中國四處找尋台籍老兵的歷史。
在1955年,許昭榮奉派赴美接艦,恰巧得知廖文毅奔走台灣獨立的消息,開始留意台獨運動的發展,並在夏威夷接觸到一本台獨運動的宣傳文宣,將此書攜回並在同袍間傳閱。在1958年因此書被捕,接著入獄十年。出獄後,奮鬥事業,卻仍不時遭受情治人員騷擾。1985年赴美考察商務,在美得知施明德在獄中絕食,參加在洛杉磯的聲援活動,護照卻從此備註銷,流亡海外。
許昭榮於1986在加拿大獲得政治庇護,在1989年持國際難民護照前往中國,尋找41年前戰亡的同袍屍首。在屍首埋葬的長山島找到同袍遺骸,也在常山島認識了一位台籍老兵,從此開始了解台籍老兵悲慘的歷史,以及展開他四處探訪台籍老兵的經過。
台籍老兵的起源,是在1945-1947年間,一群十七十八歲的台灣子弟,因為家計貧窮或其他種種原因,成了國府陸軍70軍62軍的戰士,或海軍的技術員兵,在中國東北華北或長江戰場出生入死。這些台灣子弟兵有的戰死,有的成了共軍俘虜一輩子無法回台,甚至參加抗美援朝的戰爭去當砲灰,並在文革期間經歷各種整肅。幸運回台的雖然回到了台灣,但他們為國府賣命從軍的歷史,卻被國府否認。自1990年代初期,部分滯留大陸台籍國軍陸續回台,但許多人也因家族四散或其他原因一直未能返台。
許昭榮在中國四處探訪台籍老兵,發起了老兵回鄉的連署運動。1991年政府開放黑名單,許昭榮得已返台。他將連署布條帶回台灣,四處演講台籍老兵的遭遇,並四處串聯在1949年回台的早期台籍老兵,企圖爭取台籍老兵的權益及歷史上該有的地位。1994年成立了台籍老兵協會,並在立法院遊說與舉行公聽會,最後迫使國防部承認台籍老兵的軍籍與其征戰沙場的歷史。但是國防部並未對台籍老兵提供妥當的照顧與尊重,其在1995年入嗣忠烈祠的活動只給予短短三天的預知,也使許昭榮決定繼續為老兵的歷史奔走,以讓世人知道他們的歷史。1997年起,便開始陳情希望替台籍老兵建碑紀念。在1998年動員老兵至高雄市政府抗議,要求建碑慰靈,最後獲致吳敦義市長同意撥給旗津一片用地讓老兵建立紀念碑與公園,但是建碑等費用需自行籌措。
當民進黨謝長廷贏得高雄市長,許昭榮原本寄望市府能幫忙建碑,卻得不到回應。市府也屢屢催促動工,威脅收回土地,許昭榮於是動用僅有的積蓄,建立一作簡單的紀念碑。在2006年後,市府開始支持此公園的興建,然在今年年初,部分市議員帶領823砲戰戰友,打算將此紀念國共內戰台籍老兵的戰爭與和平紀念公園,改成紀念823砲戰的公園。少數市議員更對戰爭與和平紀念公園的「戰爭」二字不悅,並認為此公園內紀念碑影響當地觀光,希望遷移。幾經折衝,市議會與市政府於4月達成協議,將此公園改名成和平紀念公園,不遷移園內台籍老兵紀念碑,但在台籍老兵紀念碑旁豎立一更為巨大的823戰役紀念碑,並要求在入口處的刻有「戰爭與和平紀念公園」的巨大石碑移走或任建築工作人員處置,或將石碑上戰爭二字移除。
許昭榮原本預計在5月13日再次展開抗爭,然在5月9日的最後協調中,三方最後同意不動入口處石碑,但公園仍改稱和平紀念公園並豎立823紀念碑。許昭榮將5月13日的抗爭改為慰靈公祭。在5月13日公祭致詞中,預告他要用生命死守戰爭與和平公園的決心。在一星期後5月20日當天,準備好數份遺書寄發給摯友與媒體,與幾位老友電話告別,最後傍晚在戰爭與和平紀念公園預定地引火自盡。其遺書中寫道「國不像國,政府不像政府,議會亂舞,司法亂彈,自由民主又脫線,愚兵愚兵一世人」,「現行退撫制度,不公不義,剝削番薯仔,照顧老芋仔」,要求審視台灣役男的制度,使老兵得到應有的公平與對待。遺言中更大力斥責扁政府,未能致力追求轉行正義,使台籍老兵錯亂的一生,沒有歸屬的生命,得到平反與正義。遺言最後,提及他要用生命死守這塊公園,直到成立台灣歷代戰殁將士紀念碑為止。
許昭榮的死,讓許多長久與許昭榮往來的本土社團,開始決定要完成他的遺願,而部分市議員與市府也在努力設法達成他生前的期望,希望能遊說當時反對此公園的部分市議員。
[1]() 「台湾老兵」とは、第二次世界大戦時において、旧日本軍に従軍した台湾人及びその後、中華民国軍に従軍し、国共内戦や朝鮮戦争に従軍して、生き残った台湾人のことを指す。
[2]() 「軍人」とは、軍籍にあり、戦闘技術や戦術学などの軍事にかかわる専門的な技能や知識を修得したものを指す。「軍属」とは、軍人ではなく、軍に所属するものを指す。時代や政治体制により定義が異なる。大日本帝国陸軍においては、傭人・雇人・判任官・高等官の四階級に大別されていた。これらの階級区分は海軍もほぼ同様である。「日赤従軍看護婦」とは、太平洋戦争時、衛生勤務に従事していたものを指す。日本国政府は、戦時衛生勤務に従事していた元日赤看護婦に対し、昭和54年度から慰労給付金制度を発足させた。しかし、慰労給付金の受給条件は、「昭和12年7月7日以降の事変地または戦地において戦時衛生勤務に服し、もしくはこれに引き続き海外で抑留、留用されていた元日赤救護看護婦」であって、「その期間が3年以上にわたり、かつ、旧軍人と同様の加算年を加えて、12年以上に達する者」が適用の対象となっている。その結果、昭和12年7月7日以前に召集された者、当時の台湾・朝鮮等に勤務していた者、さらに在勤年数3年未満の者は給付金受給の適用から除外されている。国籍条項の問題だけでなく、日本国籍を有する従軍者でも補償の対象外となっている問題がある。
戰爭與和平紀念公園導覽解說培訓課程~召幕中
【戰爭與和平紀念公園導覽解說培訓課程 】
時間 / 10月17、24日 (星期六)
上課地點 / 高雄市戰爭與和平紀念公園主題館
(高雄市旗津區旗津二路701號)旗津半島旗后地區
以下真人真事,邀請你來聽一群台灣人的無常遭遇,並學著替他們說故事。
【進丁是台南放牛孩子,18歲娶妻,19歲生子天賜,20歲被送去南洋當日本軍伕,沒打死,日本投降回台灣。25歲被國軍拉去大陸,在淮海戰場被俘虜,改作人民解放軍。打敗國民黨後,又跟去朝鮮打韓戰,也沒打死,落腳北京,娶妻生子。文革批鬥,又沒鬥死。67歲重返故土,父母早不在,妻改嫁,天賜為他添了孫子。進丁沉沉站在幼時放牛的大樹下,很久很久…】
指導單位:高雄市政府文化局
主辦單位:高雄市關懷台籍老兵文化協會
對象:無年齡限制,對台灣歷史文化藝術的愛好者。
上課地點:高雄市戰爭與和平紀念公園主題館
(高雄市旗津區旗津二路701號)
報名方式:填妥報名表以傳真、e-mail或親至本館繳交。 下載報名表
《未滿18歲者,另請附上家長同意書,謝謝您!!》 下載家長同意書
洽詢專線:07-5719973 / 0930923371 石玉菁 傳真:07-5719973
e-mail:sevenstone_7@hotmail.com
課程內容:主辦單位保有更動課程權利 費用:免費
本次課程邀請知名台灣專家-前國史館館長張炎憲老師、旗津重要文史學者謝榮祥老師、高雄市關懷台籍老兵文化協會莊盛晃總幹事、吉定安建築師事務所負責人吉定安建築師、戰爭與和平紀念公園張允慧館長等。引導學員貼近台籍老兵的歷史故事、旗津半島的傳說風采,發掘隱身其間的點滴故事,更邀請您參與園區紀念空間的規畫研討和模型製作-還心計劃!
課程內容

【敬邀】詠嘆台籍老兵的「戰爭為何?青春為誰?」
【緣起】
各位關懷台籍老兵的朋友們,自從今年5/20開園以來,高雄旗津「戰爭與和平紀念公園及主題館」即正式由本協會經營管理。從人員培訓、制度建立、志工招攬、軟硬體調整…等逐步進展。已經於七月8、9兩天辦理第一次的導覽解說訓練課程,超乎預期的有31人報名,其中更不乏文史工作者、社區大學講師、導覽解說員等專業人士。
更鼓勵我們的是,課程結束學員紛紛表示受到感動,對台灣人做三國兵這段歷史的感慨和對許昭榮前輩的感佩,並願意進一步參與,把這一段深具教育意義的史事,宣講給更多人知道。此外,目前已有14人報名志工。
旗津「戰爭與和平紀念公園及主題館」是我們的責任和義務,我們要把三國台灣兵的許多感人故事傳承下去,好讓子子孫孫明白為什麼台灣兵會成為一群「沒有國家保護的戰士」(導覽課程之一:劉峰松老師教材)我們一定全力以赴!
以下,是我們將要在7月26日推出的第二個活動。
- 詠嘆台籍老兵的「戰爭為何?青春為誰?」
【演出】岡山長老教會青年樂團
【時間】2009年7月26日(禮拜日)傍晚16:00到18:00
【地點】高雄市 旗津 「戰爭與和平紀念公園」(風車公園旁)
【主辦】高雄市關懷台籍老兵文化協會
【指導】高雄市政府文化局
【聯絡】張允慧 0933341533 07-5719973
【內容】
日本台灣,20萬人投入戰爭,6萬人離台出征。
終戰:3萬多個青春戰死,1萬5千個壯丁失蹤,從此不見。
國軍台灣,至少1萬5千人開赴中國大陸,投入內戰。
戰敗:幾百人返台,另幾百人滯留大陸,1萬幾千個青年戰亡。
這多少萬青春少年,來不及擁吻愛情,趕不上疼抱稚子,
不能見阿母一面,沒跪謝阿爸養育…
就這樣走了,一去不回頭;
高歌著天皇萬歲,大聲唱我愛中華;
不知道日本軍的侵略殺戮,
不了解國共爭權的血流成河…
台灣阿母,一想像你孤單的斷氣,
就心如刀割,心如刀割呵…
今天,在風和日麗的旗津,在迎風踩車的戰爭與和平紀念公園,
孫孫輩的台灣少年,想要 -
用音聲 -為你們詠嘆未付享受的青春
憑心思 -台籍老兵那段莫名其妙的歷史
深深唱 -呵護著我們的和平
感謝主 -我可以自主的青春
戰爭與和平紀念公園導覽解說培訓課程~召募中
【戰爭與和平紀念公園導覽解說培訓課程 】
時間 / 7月8、9日 (星期三、四)
上課地點 / 高雄市戰爭與和平紀念公園主題館
(高雄市旗津區旗津二路701號)旗津半島旗后地區
以下真人真事,邀請你來聽一群台灣人的無常遭遇,並學著替他們說故事。
【進丁是台南放牛孩子,18歲娶妻,19歲生子天賜,20歲被送去南洋當日本軍伕,沒打死,日本投降回台灣。25歲被國軍拉去大陸,在淮海戰場被俘虜,改作人民解放軍。打敗國民黨後,又跟去朝鮮打韓戰,也沒打死,落腳北京,娶妻生子。文革批鬥,又沒鬥死。67歲重返故土,父母早不在,妻改嫁,天賜為他添了孫子。進丁沉沉站在幼時放牛的大樹下,很久很久…】
指導單位:高雄市政府文化局
主辦單位:高雄市關懷台籍老兵文化協會
對象:無年齡限制,對台灣歷史文化藝術的愛好者。
上課地點:高雄市戰爭與和平紀念公園主題館
(高雄市旗津區旗津二路701號) 旗津半島旗后地區
報名方式:填妥報名表以傳真、e-mail或親至本館繳交。下載報名表 【按此】
洽詢專線:07-5719973 / 0933341533 王筱蘭
傳真:07-5719973 e-mail:sharonwang169@gmail.com
課程內容:主辦單位保有更動課程權利 費用:免費
本次課程邀請旗津重要文史學者謝榮祥老師、前國史館台灣文獻館劉峯松館長、台籍老兵的血淚故事作者薛宏甫先生、高雄市關懷台籍老兵文化協會莊盛晃總幹事、高雄金典酒店副理石玉菁小姐,帶領學員貼近台籍老兵的歷史故事、旗津半島的傳說風采,發掘隱身其間的點滴故事,讓您親身體驗學習導覽解說的實務過程!
※戰爭與和平紀念公園導覽解說培訓課程內容

2009高雄市戰爭與和平紀念公園志工召募開跑囉!
你(妳)有空閒時間卻找不到事情做嗎?
你(妳)想為社會盡一份心力卻不知該從何做起嗎?
加入『戰爭與和平紀念公園』志工服務行列,關心台灣歷史文化藝術,
讓更多的民眾感受到台灣文化之美,
你(妳)的小小服務,可以讓台灣的空氣充滿愛與文化的氛圍喔!
◎ 召募時間:98年6月~98年12月
◎ 召募辦法:有意從事志願服務者,填寫志工報名表後,請洽『戰爭與和平紀念公園
主題館』,排定面談事宜
◎ 召募對象:1、年齡、性別不限
2、對台灣文史服務具熱忱者
3、願意配合機構服務、遵守機構志工規範並參與志工訓練及督導者
◎ 服務內容:1、清潔志工:園區館舍清潔維護
2、導覽解說志工:服務來園區館舍訪客之導覽解說等
3、活動志工:園區館舍所舉辦營隊或大型活動辦理之協助
4、行政志工:海報繪製、館舍值班、行政業務協助處理等
◎ 其他事項:1、志工須參與本會辦理「志工基礎訓練」課程(6小時),方可核發志
願服務證書
2、本會均為志工辦理意外事故保險,保障志工服務安全
地址:高雄市旗津區旗津三路701號
電話:07-5719973
報名表 按此下載
歡迎您的加入,伸出您的雙手,讓我們生活的社會更溫暖!
高雄市關懷台籍老兵文化協會志願服務計劃書
壹、依據
(一) 志願服務法第7條、第9條
(二) 高雄市政府文化局「戰爭與和平紀念公園暨主題館98年度管理維護」
委託契約書
貳、機構服務背景
參、本會接受高雄市政府文化局「戰爭與和平紀念公園暨主題館」,提供高雄市民與國內外人士在地化的文化服務,服務內容包括:園區館舍清潔維護、導覽解說、活動執行與行政協助等,以提升園區參觀導覽、旅客服務等基本功能,以符公園設置之社教目的。
肆、目的
本會為落實關懷台籍老兵文化工作,增進台灣文化環境發展,成立以來運用志願服務者協助本會各項計畫之推動。為提升志願服務者服務效能,故需加強志工招募、管理,提升志工對機構之向心力,以及志願服務者對服務事項之相關專業知能與技術訓練,使志願服務者成為本會之助力,以有效提升館舍服務品質與效率。
伍、實施時間
98年6月至98年12月止
陸、志工召募
(一)召募對象需求
1、年齡、性別不限
2、對於台灣文史工作有服務熱忱者
3、具備文化館舍服務相關經驗者
4、願意配合機構服務、遵守機構志工規範並參與志工訓練及督導者
(二)召募方式
1、透過本會網站、佈告欄等發布消息公開
2、大專院校服務性社團宣傳
3、社區宣傳
4、長青宣導
(三)召募程序
1、欲申請之志願服務者須檢附志工申請報名表等資料
2、由工作人員面談。
3、另行通知錄取與否,再通知志願服務相關事宜
柒、志工運用
(一)清潔志工:園區館舍清潔維護
(二)導覽解說志工:服務來園區館舍訪客之導覽解說等
(三)活動志工:園區館舍所舉辦營隊或大型活動辦理之協助
(四)行政志工:海報繪製、館舍值班、行政業務協助處理等
柒、志工訓練
(一)志工訓練:每年舉辦兩次,新進志工皆須參加基礎訓練課程,方可申請核發志願服務證及志願服務手冊
(二)服務行前說明會:正式執行服務前,辦理服務內容說明,讓志工了解服務內容,解答其疑惑等。
捌、志工管理
(一)遵守志工倫理守則
(二)每次服務時均須填寫簽到、簽退紀錄
(三)進行志工服務時,應配戴志願服務證
(四)因故無法出席時,應事先通知機構人員以方便人力調整
(五)因故無法繼續服務時,應以書面依循程序提出離職申請書,並繳回志願服務證等相關證件
玖、志工督導
(一)志工應參與督導會議及督導訓練
(二)服務執行中如遭遇問題,應儘快向督導或工作人員詢問以解決問題
拾、志工考核
(一)每月查核簽到紀錄,登記服務時數
(二)志工應參與機構辦理之志工訓練課程,須達一定時數方可繼續服務
(三)每年均給予志工服務證書,以玆服務證明
拾壹、志工其他相關事項
(一)本會均為志工辦理意外事故險,以保障志工服務安全
(二)志工服務獎勵依照高雄市志願服務獎勵辦法辦理
(三)視經費補助狀況,提供志工訪視交通費、誤餐費
拾貳、實施期程
拾參、志願服務法相關事項
(一) 申請志願服務證:完成基礎訓練課程後申請
(二) 申請志願服務紀錄冊:完成基礎訓練課程後申請
(三) 查核志願服務紀錄冊:每年10月,志工繳交紀錄冊登錄資料
(四) 基礎訓練課程:6小時。新進志工必修
拾肆、志工獎勵:
(一)本會績優志工條件:
1、服務年資滿一年
2、全年服務120小時以上者
3、全年參與訓練總次數之1/3以上者
4、其他特殊優良事蹟足堪表揚者
(二)各項獎勵(各項標準及申請月份依來文辦理)
1、志願服務績優銅牌獎:服務時數達三千小時以上,持有績效證明書者
2、志願服務績優銀牌獎:服務時數達五千小時以上,持有績效證明書者
3、志願服務績優金牌獎:服務時數達八千小時以上,持有績效證明書者
4、金鑚獎:志願服務年資滿三年,服務數達六百小時以上
5、三等志願服務獎章:服務年資滿三年,服務時數達四百五十小時以上
6、二等志願服務獎章:服務年資滿五年,服務時數達七百五十小時以上
7、一等志願服務獎章:服務年資滿七年,服務時數達一千零五十小時以上
8、松青獎:六十五歲以上,年資滿一年,服務時數達120小時
9、松柏獎:六十五歲以上,年資滿三年,服務時數達360小時
10、松鶴獎:六十五歲以上,年資滿五年,服務時數達600小時
拾伍、預期效益
(一)本會志工人數維持20人,全年服務量達20000人次
(二)期待參與課程之志工能對本會計劃推展有所助益
(三)建立本會志工訓練管理方式,以利維持志工長期服務
拾陸、成果評估
(一)志工訓練課程回饋表
(二)志工督導會議意見回饋
(三)本會工作人員方案檢討評估後,提出評估報告
拾柒、經費來源
(一)政府服務計畫補助之志工費用
(二)編列機構年度預算
志工守則
管理單位:高雄市關懷台籍老兵文化協會
一、志願服務者需遵守志願服務倫理守則。
二、志願服務者需遵從本會訂定之志工規範及機構規範。
三、正式成為本會志願服務者,均發給志願服務證,以資證明其身份。
四、本會均為志工辦理意外事故險,以保障志工服務安全。
五、志工每次服務前後均須填寫簽到紀錄冊,註明服務時間及服務內容,以供計算服務
時數。服務時數宜以每次總計3小時為原則安排。
六、志工在進行導覽解說、活動執行及行政值班時,應配戴志願服務證,並明確告知身
份,以利民眾辨識。
七、如有任何服務執行問題,應立即反映給工作人員以解決問題。
八、志工應依循服務時間表,按時服務;因故無法出席時,應至遲於一日前事先通知機
構社工,以方便人力調整。
九、志工應須參與機構辦理之志工訓練及督導會議,透過再學習及經驗分享,提升服務
品質。
十、因故無法繼續服務時,應依循程序以書面提出離職申請書,並繳回志願服務證等相
關證件。
十一、志工其他福利,包括誤餐及報名本會活動其他服務優惠等。
高雄「戰爭與和平紀念公園」落成啟用典禮的鬧場事件
此為投書自由時報-自由廣場的"修正"版本
去年五月二十日,我們的好朋友許昭榮,一個生於戰亂,當過日本兵、當過國軍,為台灣坐過政治黑牢,畢生致力於爭取台籍老兵尊嚴,及催生國家級紀念公園的可敬長者,在政權輪替當天,選擇在旗津「台灣無名戰士紀念碑」前,以自焚的方式來抗議執政者長期對台籍老兵權益的漠視。
今年的五二○,「戰爭與和平紀念公園」終於落成啟用,同時也為許昭榮先生舉行追悼會。當我們與來自日本、美國的貴賓一起懷著肅穆的心情在進行儀式時,旗津當地的國民黨議員陳漢昇,卻要求上台致詞,且在致詞時說,許昭榮的紀念碑不應立於公園,應進忠烈祠,否則觀光客看了心裡會有疙瘩。此舉引起台下音樂家醫生鄭智仁不滿,要求他「不要講了!」不料,惱羞成怒的陳漢昇就在國內外貴賓面前,不斷咆哮回嗆,並且丟擲麥克風,追打鄭醫師,最後還用椅子丟擲鄭醫師。
我們除了對陳漢昇表達最嚴正的抗議外,也要提出一些說明。若非許昭榮先生十多年來的奔走與爭取,這座公園至今仍是一片荒煙蔓草的不毛之地,今天旗津多了一座漂亮的公園,而且是全國唯一具有反戰、愛和平,與紀念歷來戰歿的台籍軍人意義的公園,它不僅豐富了旗津當地的風貌,更深化了一層悠遠的歷史記憶,對旗津的觀光事業絕對有正面的影響。相信大多數心胸寬闊的旗津鄉親應能認同才是。
(作者為大學副教授,高雄市關懷台籍老兵暨許昭榮文化協會理事長)




