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許昭栄さんの自死を悼む三宅清子

許 昭栄さんの自死を悼む               
                 三宅清子

  5月21日の朝8時いつものようにパソコンを開けると、緊急速報「老兵逝く,戦友・許昭栄自決」という文字が飛び込んできた。

  思わず口から悲鳴とも叫びともつかない声をあげていた。

  5月10日ごろ、許昭栄さんから国際電話をいただき、その頃来日中の陳菊高雄市長に連絡して「戦争と平和記念公園」の存続の危機に力を貸して欲しいと私から話して欲しいとのことであったが陳菊市長は日本の何処にいるのか探しようがなく、仕方なくメールで許昭栄さんに励ましの言葉を送った。

  5月16日には許昭栄さんからファックスを受け取っている。

  そこには5月13日に元日本軍族連合会と元国府軍台湾老兵及び遺族会協会の代表と高雄市政府と市議会で協議会が持たれ、許昭栄さんたちの要望である石碑や施設はそのまま残せることになったが、名称は「平和記念公園」に変更し、「無名戦士慰霊碑」の横に「八二三戦没者記念碑」を置くとのことである。

  ファックスには「台湾人の価値観は私のものとは全く違っていることに気づいた、民進党の政客たちが一番よい証拠です」とも書いてあった。

  更に「清子さん、私は本当に心身ともに疲れました、もう台湾にはいたたまれなくなりました。5月20日の吉凶日をよきチャンスと見なし、旗津「戦争と平和記念公園」を死尋し、そこに「国立台湾歴代戦没者慰霊塔」が誕生するよう促したいと思う」としたためられていた。

  これは明らかに私に宛てた遺書であったのに愚かな私はその意味を深く読みとらず、あの強靭な精神力を持った許昭栄さんが自害するなど夢想だにしなかった。

  ネットですぐさま台湾の新聞を渉猟、事実が確定的なものとなるもこのような悲劇で人生の幕を下ろさざるを得なかった許昭栄さんの深い憤り、悲しみ、絶望、虚脱感などなどを思い、そんな時何の手助けも出来ず、最後の遺書でさえ覚悟の死を見抜けなかった自分の浅薄さへの自責の念にかられた。

  やり場のないやりきれなさ、それにもましてあの慈父のような許さんの笑顔や、ご夫妻とともども親類のようなお付き合いをして頂いたこの8年間の一こま一こまが浮かんで深い深い悲しみの淵に身を沈めた。

  思えば私が許昭栄さんの存在を知ったのは2000年のことである。

  1997年に「台湾人戦争展」の記念に出版された「台湾老兵写真物語」を2000年に始めて手にし、大東亜戦争中の台湾籍元日本兵の50数名のセピア 
色にあせた写真と物語を読むにつれ、植民地支配された側の、望む、望まないにかかわらず、戦争に駆りだされた人々の辿った茨の道が胸に迫った。

  その中で特に許昭栄さんの「老兵は死なず、最後まで戦う」の一文を読み、許昭栄さんご自身の元日本兵、元国民党兵、10年間の政治犯としての投獄、海外での亡命生活、それだけでも凄まじい辛酸の波をくぐってこられたのに、中国大陸にかっての戦友の亡骸を捜しに行き、そこに残留する台湾人老兵たちの存在を知り、自費を擲って中国に乗り込み実地踏査をして彼らの存在を明らかにされた。許昭栄さんの調べ出した中国に残留する台湾の老兵たちの辿った歴史のあまりにもの悲劇性に私は驚愕した。

  どうしても許昭栄さんに会いたいとの強い思いで何度も連絡したがやっとのことで2000年の秋来日された折に初めてお目にかかることが出来た。

  日本、台湾、中国、どの政府も何の責任も取らす、棄唾され、その存在すら明らかにされなかった台湾人老兵問題を白日の下にさらした許昭栄さんの著書「台湾老兵的血涙恨」を翻訳し、形を変えて日本でこそこの史実を訴えたいとの思いに駆られていた私はその旨お伝えした。

  大いに喜んでくださり、私は日本の多くの出版社を駆け回ったがいずれも日本の市場に合わないと一蹴された。

  その後ご自身で日本語による「知られざる戦後、元日本軍、元国府軍老兵の血涙物語」を2002年の5月に台湾で出版された。

  また旗津の「台湾無名戦士記念碑」の建設にもどれほどの心血を注いでおられるかも知った。2001年3月、始めて雑草の茂るまだ荒廃している旗津の地に案内して頂き、目の前の台湾海峡を望んでは、この海から出兵していった兵士たちが異郷で命を失い望郷の思いで台湾のこの海を渡って帰ってくるにふさわしい場だとおっしゃっていた。その後殆ど毎年私はこの地を訪れたが、その度に「戦争と平和記念公園」として整備され、2004年には立派な「台湾無名戦士記念碑」が設立され、やがてはこの場に「戦争文物記念館」台湾無名戦士の石碑も作りたいとおっしゃっていた。

  2006年の12月に高雄に行った時には丁度「戦争と平和記念公園」の第一期工事完了のオープニングセレモニーに合わせ、公園の入り口に設置される大理石の石碑が花蓮から届くとのこと、許昭栄さんは一日に何度も四輪駆動車で旗津を往復し、私も陳菊さんの高雄市長選挙応援のかたわら許昭栄さんの車で現場に同行させていただいた。石碑に協力者の方々の名を記すことなど色々相談も受けた。この時はまさか後にこの大石碑の撤去まで高雄市議会から要求されるなど思いもよらず、許昭栄さんは一歩一歩ご自分の希望の実現に近づいたことでとても高揚しておられた。

  私は許昭栄さんの台湾老兵としての歴史や現在行なっておられる偉大な業績をどうしても日本でも知らせるべきとの思いで、早稲田大学の台湾研究所が行なっている「台湾老兵研究会」に是非許昭栄さんを呼ぶべきだと強く主張、やっと2007年の6月実現した。

  貴重な発表の機会を与えられたことを大変喜んでくださったが、研究会での講演は残念ながら一部の学者たちだけで非公開で行なわれた。

  思えばそれが許昭栄さんの最後の来日になり、私もその時以来お会いするのが最後になってしまった。

  許昭栄さんがこのような自決に至ったのも国民党はもとより、台湾人が選択した民進党や陳水扁元総統に対する絶望も大きく起因すると思う。

  亡くなる少し前に頂いた電話でも、陳水扁総統に何度も慰霊祭に数分でも良いから出席して欲しいと要請を出しても就任中一度も顔も出さなかったし、許昭栄さんが中国残留台湾老兵を中国各地を巡り、探し出して故国帰還を願う老兵たちの署名を集め持ち帰った大変貴重な白布を、2004年の陳水扁総統選挙運動に使いたいと陳水扁から頼まれ貸したところ、返還しないどころか失ってしまったとのことである。

  このような台湾の歴史に留めおくべき偉大な戦いをなした許昭栄さんを軽視続けた台湾の政府や関係者、そして最も責めるべきは台湾人を日本の戦争に徴用し戦後は国交がないことを理由に一切の正式な賠償や謝罪もしない日本政府でもある。

  許昭栄さんのこの度の自死は覚悟の尊厳死であり、美学であったとしてもそれでも私は開高健のこの言葉を送りたい。

  「明日世界が滅びるとしても、今日あなたはリンゴの木を植える」
生きていて欲しかった。

  今はあの世でリンゴの木を植えておられるであろう許昭栄さん、あなたの高潔で慈悲深い人柄を慕っている多くの友人や家族はどんなに深い悲しみと寂しさに耐えて生きていることか。

  残された私たちはこの志を受け継いでリンゴの木を植えて行きます。

  この世で許昭栄さんのような方とお会いして幸せでした。永遠に忘れません。

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