【公告:本站所有文字、圖片及影片,版權所有,請勿移作他用;引用連結請載明出處,謝謝!】


許 昭栄烈士の「戦争と平和記念公園」設置運動奮闘史

前書き

  私と許 昭栄烈士(以下許先生)の知合いきっかけは2003年9月の「台湾文学評論」雑誌での許先生の日本語著書「知られざる戦後元日本兵元国府軍台湾老兵の血涙物語」の北京語翻訳者募集の記事でした。あれから一年に掛けて、翻訳出版しました(私は2001年1月に日本より台湾へ帰りました。当時は台湾衛生署疾病管制局の研究員でした)。

  これを機に、2004年11月10日に「台湾無名戦士記念碑」の落成式に招待されました。

  2006年2月に図らずも、高雄医科大学に転職が決まり、許先生との交誼が深みました。その5月に、許先生と一緒に再度記念公園へ訪ねたとき、「戦争と平和記念公園」の木製看板が強風に飛ばされて、放置したままなので、二人で立て直しました。その時、私は許先生の承諾を得て、8月の夏休みを利用して、日本へ帰り、記念碑の募金活動に取り組みました。

  その年の12月23日に第一期の工事終了のオープンニングセレモニに合わせて、現在の「戦争と平和記念公園」石碑を建立しました。

  私は許先生の正義心と行動に心より敬服し、人生の師として、仰向きました。
許先生の長い年月の献身ぶりを短い付き合いの私にその奮闘史を述べるのは大変僭越と思っていましたが、これを断ることは出来ないと思いました。

  この報告は、殆ど、許先生自身が纏めた資料で、先生の奮闘、献身ぶりを如実に伝えるものと信じています。

「歴史真相の追究から記念公園建設まで」

  一、1991年9月、許昭榮先生は国民党政府(以下国府)のブラックリストから名前が外され、8年ぶりに台湾へ帰郷しました。飛行機を降りたときから、「滞留大陸台籍老兵要回家」の横断幕を携えて、台湾各地で、台湾老兵問題を訴え始めました。また立法委員の選挙応援演説の機会を得て、中国残留台湾老兵の非情を民衆に訴えた。

  二、1994年1月から、台湾各地に散在している台湾老兵に結束を呼びかけ、決起集会を発起しました。また、署名運動を高雄からスタートしました。

  三、1994年3月28日、立法委員との共催で公聴会を開きました。

  四、同年4月28日に、長年に渡る台湾老兵に関する調査資料を当時の国防部長孫震に手渡しました。
 
  五、同年11月10日に台北国軍英雄館に於いて、「中華民国国府軍台湾老兵および遺族協会」を樹立し、初代理事長に選任されました。

  六、1995年6月13日に、国防部の各部署代表と協調会議を持ちましたが、合意に達しませんでした。

  七、同年7月5日に国防部の傲慢さに煮やし、380余人の台湾老兵と遺族を動員し、台北駅より、国民党中央党部まで、デモ行進をしました。

  八、当時の国防部長蒋仲苓が国民党本部より、直接に姿が現し、抗議書を受け取ってくれ、この問題の解決に努力すると言ってくれました。大陸出身の軍人で、一級上将でもこのような方がいるのかと力つけられました。

  九、その後、国防部に招かれ、三軍クラブにて、要望を訴えました。合意内容は
  1. 戦後、台湾籍の戦死した将兵の御霊を圓山の忠烈伺に入伺する。
  2. 元国府軍台湾兵の資格認定条件を緩和する。
  3. 補償金を優遇的に配慮する。
  4. 資格認定を得た者は「栄誉国民」(栄民)と見なす。
(但し、以上四つの要件は幕僚の手によって、受諾した通りに実行されませんでした。 これが軍事官僚組織だと思います)
 
  十、1995年8月17日に、国共内戦で戦死した台湾兵およそ一万二千御柱を入伺しましたが、儀式は非公開で、秘密に行われ、写真さえ撮らせて貰えませんでした。

  十一、台湾英霊を非公式に入伺する国防部の遣り方に不満を抱き、同年11月15日に自ら資金を捻出して、台北市二二八記念公園にて、戦後初めての慰霊祭を行いました。
 
  十二、1998年6月28日、米国クリントン大統領の訪中を契機に「台湾を死守せよ、中共による台湾併呑反対」のスローガンを掲げ、高雄市で、ハンガーストライキを展開。7日間のリレー式ハンストを強行しました。
 
  十三、7月4日(アメリカ独立記念日)のハンスト最終日に、アメリカ駐高雄領事館へ行き、台湾主権干渉を抗議、抗議文を読み上げ、総領事に手渡しました。
 
  十四、同日午後、デモ隊を高雄市政府に押し進め、台湾老兵の慰霊碑建設用地を要求しました。

  十五、当時の高雄市長呉敦義氏との直接談判を要求、ロビーに座り込みました。呉敦義市長は要求を聞き取ってくれ、一週間以内に、建設用地問題の解決を約束してくれました。

  十六、同年8月24日に、高雄旗津海岸公園予定地(約3800坪)を提供すると決定。

  十七、2000年12月25日に、高雄旗津海岸「戦争と平和記念公園」予定地にて、第二回の台湾兵慰霊祭が催行しました。当日、台湾老兵のシンボルとして「魂鎮故土」の鉄板柱を建てました。

  十八、記念公園の建設費用の要求に、期待していた民進党政府には一向に相手にしてもらえず、建設用地は荒れ果て、精神シンボルの鉄板塔柱さえも落書きされました。

  十九、2004年11月10日、「全国元国府軍台湾老兵および遺族協会」成立10周年記念日として、「台湾無名戦士記念碑」を自費建設しました。

  二十、「戦争と平和記念公園建設促進会」を結成して、政府に交渉した結果、2005年10月29日に、終戦60年にして、初めて政府の主催による追悼会が行われました。同時に、行政院文化建設委員会委員長と高雄市長が始めて、「戦争と平和記念公園」の建設に認め、立札に署名しました。

  二十一、2006年1月26日に、「連合国軍戦没将兵記念碑」建設要望に同意しました。

  二十二、2006年10月24日に、台湾の仏教と道教宗教団体合同法要が行われました。

  二十三、2006年12月23日に、記念公園第一期工事終了(220万台湾元)、オープンセレモニが行われた、入り口に「戦争と平和記念公園」大理石門碑も完成しました。

  焼身自決までの激変


  二十四、2007年11月19日に、行政院文化建設委員会の第二期建設金千四百万台湾元に対し、高雄市が六百万台湾元の出すことになった。この予算の高雄市議会での審議のなかで、親民党議員王齢嬌(外省人栄民第二代)が提議して、「戦争と平和記念公園」を「八二三砲戦記念公園」に改称し、石碑撤去まで要求する内容の決議が多数決で決められました。4月29日の石碑移転処理会議に郵便証明函を郵送して、欠席抗議しました。

  二十五、2007年12月から2008年4月までに、42名の賛成議員に対し、「戦争と平和記念公園」建設の意義と重要性を訴える文書で送り、面会要求を続けました。

  二十六、2008年5月9日に、元日本軍人軍属連合会と元国府軍台湾老兵および遺族教会の代表達が高雄市議会へ行き、抗議と請願を行いました。高雄市側は緊急協議の結果、石碑は移転しないが、公園名称を「平和記念公園」に改称するとの提案がありました。

  二十七、2007年11月の公園改称動きに対して、陳水扁総統の台湾英霊碑を訪ねてくれぬかと要望しましたが断わられました。

  二十八、2008年5月13日 自費による最後の慰霊祭を行いました。

  二十九、2008年5月20日、馬英九総統就任、政権交代の日に、台湾人の良識を喚起するために、身を投げ捨て自決した。 (中国人の不公不義と台湾人の自信喪失に絶望)

                   周 振英 謹記 (2008/07/20)

沒有留言: